2022年02月09日

辻原登・永田和宏・長谷川櫂著『歌仙はすごい』


副題は「言葉がひらく「座」の世界」。

作歌の辻原登、歌人の永田和宏、俳人の長谷川櫂の3人が巻いた歌仙と座談会、計8篇が収められている。「葦舟の巻」(大津)、「隅田川の巻」(深川)、「器量くらべの巻」(鎌倉)、「御遷宮の巻」(横浜)、「鬼やらひの巻」(同)、「五郎丸の巻」(鎌倉)、「短夜の雨の巻」(秋田)、「葦舟かへらずの巻」(江ノ島)。

575の長句と77の短句を繰り返し、計36句の連句で一巻とする歌仙。その魅力やコツについては、捌き手である長谷川の言葉が参考になる。

一句一句視点を自在に変えられる。多面体になる、というところが連句の面白いところかな。
あえて数量的に、前句と付け句の距離がゼロから十まであるとしたら、ゼロから六まではダメだと思います。七以上じゃなきゃいけない。十一でもいいときもある。

読んでいると、ハッとさせられる付け方が随所に現れる。

樏(かんじき)を背負ひて山は八合目(永田)
御蔵(おぞう)の中に古(こ)フィルム捜す(辻原)
オークションの案内届くエアメール(永田)
木槌にさめる春のうたたね(長谷川)
宇宙から眺める地球水の星(長谷川)
一瞬のいなづま我が家を照らす(辻原)

短歌との関係で言えば、「575」「77」という韻律は同じだが、私性に関しては正反対と言っていい。再び長谷川の言葉を引こう。

もちろん誰でも年齢、性別、職業、信条をもつ特定の個人「私」である。しかし歌仙の連衆はその「私」を忘れ、付句が求める別の人物にならなければならない。
日本人がヨーロッパから学んだ近代文学が「私」に固執する文学であるなら、連衆が「私」を捨てて別の人になりきる歌仙はその対極にある文学ということになるだろう。

そもそも明治時代に和歌が短歌にリニューアルされたのは、ヨーロッパから近代文学が入ってきた影響であった。歌仙と比べてみることで、特定の個人「私」を根拠とする短歌の特徴が浮き彫りになる気がする。

2019年1月25日、中公新書、880円。

posted by 松村正直 at 18:47| Comment(0) | | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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