おはようございます。 お子さんを亡くした村岡花子の歌文集、散文のところで私もうるうるしました。ちょっと違いますが、以前広島県の江田島で特攻隊員の遺書を読んだ時、原文では「謹啓 父上様 母上様」となっている冒頭が、英訳では「Dear Papa and Mama」となっいて、思わず嗚咽が漏れたことを思い出しました。 石牟礼道子の短歌の限界≠ノついて述べた文章は、故・島田修二先生がどこかで「若い頃は短歌で世直しが出来ると思っていたが、今は短歌は純粋に短歌であるべきだと考えている」という趣旨のことを書いていらっしゃったのを思い出しました。
お子さんを亡くした村岡花子の歌文集、散文のところで私もうるうるしました。ちょっと違いますが、以前広島県の江田島で特攻隊員の遺書を読んだ時、原文では「謹啓 父上様 母上様」となっている冒頭が、英訳では「Dear Papa and Mama」となっいて、思わず嗚咽が漏れたことを思い出しました。
石牟礼道子の短歌の限界≠ノついて述べた文章は、故・島田修二先生がどこかで「若い頃は短歌で世直しが出来ると思っていたが、今は短歌は純粋に短歌であるべきだと考えている」という趣旨のことを書いていらっしゃったのを思い出しました。
毒魚らと呼ばれてあはれ水俣の魚に罪の無かりしものを
かつて私自身も歌によって世直しの一翼が担いうると考えた者であった。しかし、歌い続けるうちに、まず変革しなければならないのは自分自身であることを実感するようになった。自身を突き刺す力を持たぬ歌が、どうして新しい言葉の力を持ち得ようか、と。(『朝日歌壇'87』年間秀歌の講評より)
訂正させていただきます。
島田修二さんの文章いいですね。短歌で「世直し」ができるのか、というのも非常に重い問いです。近年、島田さんの歌は取り上げられることが減っていて残念に思っています。