2022年01月28日

岡井隆歌集『神の仕事場』


1990年末から1994年春までの作品を収めた歌集。全402ページ。

詞書、折句、口語、長歌、俳句など、様々な修辞や試みが行われている。ゆっくりと時間を掛けて読み解き、何度も繰り返し味わうことのできる歌集だ。

永遠に不平屋としておれはゐる 濡れし鼻面を寄せる巨犬(おほいぬ)
冬螢(ふゆぼたる)飼ふ沼までは(俺たちだ)ほそいあぶない橋をわたつて
生きゆくは冬の林の単調さ(モノタナス) とは思はないだから生きてる
うすうすは知りてぞくだる碓氷嶺(うすひね)のおめへつて奴がたまんねえんだ
朝毎に日経をよむささなみの数字の波もデザインとして
午後(ひるすぎ)はゼミの学生前列に安寝(やすい)するまでわが声甘し
つらつらにつゆいりまへのみなとまちあさのうをいち見ずてさりゆく
玄関にでて手を垂れてあやまりし亡き父よむづかる左翼の前に
轢断といふを思へば昨夜(きぞ)われは人のこころを轢いて来にけり
スキャンダラスにノートリアスに生きるとは矢が立つたまま飛ぶことである
目の下の脹(は)れたる顔が映りをり向うは清き朝の早苗田
人間は空しき艇庫わたつみゆいつ帰り来む愛をし待ちて
越の国小千谷(をぢや)へ行きぬ死が人を美しうするさびしい町だ
陽物(やうもつ)を摑みいだしてあけぼのの硬き尿意を解き放ちたり
みづうみと無数に情を通じたる大河(たいが)よ夜の水になりゆく

1首目、現状に満足できない自分。下句の巨犬は自画像であろうか。
2首目、挿入句(俺たちだ)の働きがおもしろい。秘密めいた冒険。
3首目、上句で定義したと見せかけて下句で鮮やかにひっくり返す。
4首目、ヤマトタケルの「吾妻はや」を踏まえた下句の言い回し。
5首目、株価欄にならぶ細かな数字を「デザイン」と捉えている。
6首目、自分の声を「甘し」と詠んだところに自嘲と自負がにじむ。
7首目、ひらがなを多用した表記。有名な朝市に寄らずに帰る旅だ。
8首目、学生運動が賑やかだった頃。「手を垂れて」の描写がいい。
9首目、轢断は体をひくことだが、心をひく方が無惨かもしれない。
10首目、印象に残る下句は1993年の矢ガモ騒動を踏まえている。
11首目、窓ガラスに映る二日酔いの顔と早苗田の対比が鮮やかだ。
12首目、永遠に戻って来ないかもしれないボートと空っぽの艇庫。
13首目、大雪や織物で知られる町。「美しう」のウ音便が美しい。
14首目、朝起きて小便をするところ。「硬き尿意」の張り詰め感。
15首目、慣用句「情を通ずる」を川の流れのイメージで蘇らせた。

1994年9月20日、砂子屋書房、3500円。

posted by 松村正直 at 07:49| Comment(0) | 歌集・歌書 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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