2021年12月25日

啄木とアイヌ

啄木が釧路に住み始めて間もなくの頃の手紙に、アイヌに関する記述がある。

アイヌには忙しくてまだ逢はず候が、当町より十四五町の春採(ハルトリ)湖と申す湖の近所に部落あり、道庁で立てたアイヌ学校ありて永久保春湖と申す詩人が校長の由、遠からず訪問して見るつもりに候。それから社長の所に、明治初年の頃何とかいふアイヌ研究者が編纂したアイヌ語辞典(但し語数順にしたる)の稿本(未だ世に公にせられざる)がある由、これもいつか見たく存居候(金田一京助宛書簡、明治41年1月30日)

永久保秀二郎(春湖、1849〜1924)は春採尋常小学校でアイヌ教育に尽力した人物。「遠からず訪問して見るつもり」とあるが、啄木の釧路生活は短く、結局会うことはなかった。

その後上京した啄木が北海道について書いた文章にも、アイヌについての話が出てくる。

 誰か北海道から帰つて来ると、内地の人は必ず先づ熊とアイヌの話を聞く。聞くのは可(よ)いが、聞かれる方では大抵返事に窮する。何故と云へば、如何に北海道でも、殊に今日に於ては、さう熊が出て来て大道に昼寝する様な事は無い。(…)
 アイヌにしても然(さ)うだ。旅行家とか、さもなくば特別の便宜ある土地に居た人でなければ、随分北海道に永く住んで居ても、アイヌを知らぬ人が多い。偶(たま)にあるとしても、路で遭遇(でつくは)したとか、汽車が過る時停車場に居たのを見た位なもの。地図には蝦夷島(えぞたう)と書いてあつても、さう行く人の数がアイヌと隣同志になつて熊祭の御馳走に招待される訳ではない。(「北海の三都」明治41年5月6日起稿)

北海道に行ったからと言って簡単にアイヌに会えるわけではないというわけだ。啄木もアイヌと関わることはなかったのだろう。そのためもあってか、アイヌ語学者である金田一京助から樺太のアイヌについての話を聞くのを喜んだようだ。

雹を見ながら、金田一君と語つた。粉屋の娘の水車で死んだ話。コルサコフの露人の麵麭売の話。アイヌ人の宴会の話。(明治四十一年日誌、6月8日)
十時頃から一時頃まで金田一君と語つた。樺太の話はうれしかつた。鳥も通はぬ荒磯の、太い太い流木に腰かけて、波頭をかすめとぶ鶻の群を見送つたり、単調な波の音をかぞへたりした光景! アイヌ少女のさき!(明治四十一年日誌、7月23日)

このアイヌの少女「さき」の名前は、金田一の樺太調査の日記によく出てくる。

サキ ハヤクモ入リ来ル。 端ニ掛ケテ ニコニコシテル 柳ノ眉 メジリ 口モト 可愛ラシイ子ダ。 飯タベナガラ 色々聞ク。手島氏来ル。 晩餐ハ四人デニギハフ。 食ヒナガラ 又 サキニ アイヌ語ヲ問ヒ試ミ 声ニ応ジテ タメラハズ サハヤカニ 問フ。(明治40年8月9日)

posted by 松村正直 at 21:39| Comment(0) | 石川啄木 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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