リルケが晩年を過ごしたフランスの山の中にある小さな「ミュゾットの館」という所は、旅行者も訪れないような、これといってなにもない所らしい。そんなところで詩人は「純粋時間」の中にとじこもり大作「ドゥイノの悲歌」を仕上げたという。どんな所だったのか、見てみたい気がする。ひょっとしたら、イカウシみたいな所ではないか、と思えるのだ。
1921年、リルケが晩年の46歳(リルケは51歳で亡くなる)から住んだスイスのミュゾットの館。ここは、1979年に高安国世が訪れている。当時、高安は65歳。
茶畑の如く正しく条なして葡萄畑ミュゾットの館に続く
ロイクを過ぎラロンを過ぎてシエールに着きぬ 現(うつつ)に君在るごとく
ミュゾットに今し近づく 年古りしポプラすさまじき昇天のごと
さびしさに耐えたる人の小さき窓 五十年後の陽がさし入りぬ
高安国世『湖に架かる橋』
「ロイクを過ぎラロンを過ぎて」「君在るごとく」「今し近づく」といった言葉に、抑えきれない喜びが溢れている。
ミュゾットの館は、高安が長年訪れたいと憧れていた場所であった。1957年に高安は西ドイツに留学するが、その時には残念ながら機会がなかった。
ドゥイノやミュゾットは、いまだにぼくの空想の土地である。せっかくヨーロッパに行き、九ヵ月も滞在しながら、とうとうこういう土地を自分の目で確かめなかったことは、ひそかな悔いとなってぼくの心の中に残るだろう。どちらもドイツからは不便なところにあり、時間と金がかかる上に、言葉も不自由な地方にある。そのうちそのうちと思うあいだに機会を逸してしまったのはぼくの怠惰のせいというほかはない。
「遺跡探訪」(1959.3)『わがリルケ』
それから20年以上を経て、ようやく高安は念願のミュゾットの館を訪れたのであった。
もう一か所の、イタリアのドゥイノも1983年に高安は訪れている。その旅から帰国して間もなく体調の不良を訴え、入院・手術。翌年に亡くなるのである。最後までヨーロッパへの憧れを持ち続けた人だったと言っていいだろう。