2021年03月01日

中津昌子歌集『記憶の椅子』


333首を収めた第6歌集。

来なかった揚羽のことをいつまでも覚えてあおく山椒茂る
白鷺がいっぽん、いっぽん、脚をぬき歩む鴨川夏草高し
ガラス越しに雨の見えれば雨はいいしずかに落ちてゆくだけだから
細い裂(きれ)のようなる空がこの路の形に沿って大きく曲がる
大理石から体は生まれ出ようとし左の膝がおおきく曲がる
大いなる浴場なりし石壁を斜めに分けて影と光は
死者なれば憚ることなく名を呼ぶに木賊は青くかたまりて立つ
青葉の林を父母と並んで歩いている誰もこちらを向かない写真
眠れねば眠れるひとの吐く息のほとりに青く靡きてわれは
空に影は落ちないものをたかだかと吊り上げられて鋼材揺らぐ

1首目、「来なかった」ことは来たことよりむしろ忘れられない。
2首目、「いっぽん」は一本でありまたオノマトペにもなっている。
3首目、窓の外の雨を眺めつつ、何か思い出しているようでもある。
4首目、ヴェニスの歌。比喩がよく、石畳の細い路地が目に浮かぶ。
5首目、彫刻の姿を動的に捉えたことで、生々しさが生まれている。
6首目、ローマの歌。浴場跡に残された石壁に過去と今が交差する。
7首目、亡くなってからの方が呼びやすい。「に」に重みがある。
8首目、カメラを向いてないというだけでなく、もう戻らない過去。
9首目、隣に眠る人の寝息を聞きながら、なかなか眠れないでいる。
10首目、上空の鋼材を見上げていると天地が反転した気分になる。

現実を描きながら、不思議な奥行きや膨らみを感じさせる歌が多い。目に見える風景の奥に目には見えない風景が浮かんでくるようだ。

2021年1月25日、角川書店、2600円。

posted by 松村正直 at 07:55| Comment(0) | 歌集・歌書 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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