十二月八日今宵妻に書く吾が葉書遺書めき行きて二枚にわたる
『吾ら兵なりし日に』
一生のことはるかとなる日十二月八日の今日の上海の曇り
『アカンサス月光』
十二月八日今日とし思う一生(ひとよ)埠頭の氷雨に戦場を
追う兵として 『樹々のしぐれ』
ガーデンブリッジと呼び馴れて過ぐる兵なりし十二月八日
戒厳の下 『祈念に』
十二月八日誰さえいわず死地に急ぐ兵としありし冬の上海
『磔刑』
空の曇り降りみ降らずみ遠くめぐる十二月八日世に残り生く
『希求』
五十年過ぐるとをいえ今の怖れ十二月八日生きし兵として
『希求』
よみがえる忘れいしころの怖れとし十二月八日今日とも思え
『岐路』
近藤は1941年12月8日を上海の陸軍病院で迎えた。
十二月八日米英両国に宣戦。病兵らは病棟ごとに集つてラヂオを聞いた。同日午後、軽症患者に一斉に緊急退院命令が出る。武器を持つて戦ひ得るものは武器を把れといふ軍医の訓示があり、わたしたちは受領した軍衣を久々に白衣に替へて、病院の門を出るため軍用トラックに乗つた。(『吾ら兵なりし日に』)
開戦の慌ただしさと緊迫感に包まれている。軽症だった近藤も軍服に着替えて上海市内に向かう。4首目の「ガーデンブリッジ」(外白渡橋)は1907年竣工の橋。開戦後すぐに上海の共同租界は日本軍が占領した。