『寺山修司青春歌集』(角川文庫、初版1972年)は2005年の改版で
作文に「父を還せ」と綴りたる鮮人の子は馬鈴薯が好き
屠夫らうたふ声の白息棒となり荒野の果てにつき刺さり見ゆ
などを削除しているらしい。
また、岸上大作『意志表示』(角川文庫、初版1972年)も1991年の改版で
北鮮へ還せと清潔なシュプレヒコールくりかえされる時も日本語
豚飼いて貧しく暮す鮮人村いちじくの葉の緑の濃さよ
といった歌が削除されているとのこと。
いずれも、「鮮人」「屠夫」「北鮮」といった言葉が差別語に該当するという判断なのだろう。
『近藤芳美集 第一巻』(岩波書店、2000年)においても、これと似たケースが見られる。一首丸ごとの削除ではないが、改変が行われているのだ。『定本近藤芳美歌集』(短歌新聞社、1978年)と比較してみよう。(Aが前者、Bが後者)
A自らはなれ土掘る朝鮮人人夫と苦力の人種意識もあはれ
B自らはなれ土掘る鮮人人夫と苦力の人種意識もあはれ
A移動刑事おそれて共に帰郷せる朝鮮人の友を思ふこの頃
B移動刑事おそれて共に帰郷せる鮮人の友を思ふこの頃
A朝鮮人に媚びて物喰ふ少女あり時報は街のいづくかに打つ
B鮮人に媚びて物喰ふ少女あり時報は街のいづくかに打つ
A北朝鮮に国興り行く選挙には吾らが残せし日本語を用ふ
B北鮮に国興り行く選挙には吾らが残せし日本語を用ふ
今日では差別語とされる「鮮人」が「朝鮮人」に、「北鮮」が「北朝鮮」に変っていることがわかる。
巻末の「書誌」を見ると、
なお、歌中・文中に今日から見て差別的な表現がある場合は、著者自らが改めた。
とある。改変は近藤自身が行ったもののようだ。その是非はともかく、こういう場合には改変箇所の一覧を載せて欲しいと思う。
岸上大作のいちじくの葉の歌は、「鮮人」という用語の問題もありますが、「豚を飼う」→「貧しい」→「鮮人」というイメージの連鎖から、放送でも紹介できないだろうと思います。
一方いちじくの葉っぱの生命感や、写真や絵で残されていることも稀であろう人の営みや風景を色鮮やかに今日に伝える歌が、差別語が用いられているという理由で、無かったことにされるのは惜しいですね。
ところで先日の『NHK短歌』のゲストの剣幸さん、宝塚現役時代からファンでした。何年か前リサイタルに行って司会をされていたことを知り、早起きして番組を見るようになりました。
特選二席になられた傘の破れた松茸の歌、私は生産者の方が商品として流通に乗せられないマツタケを、心を込めてお嬢さんに送る歌と思いながら鑑賞しました。
テレビやラジオ、新聞、ネットなどでも、こうした差別的な言葉や表現をどう取り扱うかは様々な議論のあるところでしょう。
小竹さんがお書きのように、どのような文脈で用いられているのかを丁寧に見ていくことが大切だと思います。ただ、視聴者や読者が全員そうしてくれるとは限らないので、どうしても難しい面がありますね。