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現在では浄土宗であるが、昭和17年までは時宗に属していた。ただし一遍とは関係なく、一向上人(俊聖)が開いた寺である。それが江戸幕府の宗教統制により時宗に組み込まれ、時宗一向派の大本山となっていた。
明治以降、一向派は何度か時宗からの独立を政府に願い出たのだが、その請願委員の一人が若き日の窿應和尚であった。結局独立は達成できなかったものの、一遍派とは別の宗規を定めることが認められるという成果を勝ち取った。
窿應和尚が山形の宝泉寺から、時宗一向派大本山の蓮華寺の住職になったのは、そうした経緯を受けてのことだったのだろう。つまり大抜擢だったわけだ。
大正8年に蓮華寺住職となった窿應和尚は、大正13年に脳出血で倒れて寝たきりの生活を送ることになる。茂吉の訪問はその見舞いを兼ねてのものであった。その様子を描いた額が寺には飾られている。
昭和6年の死に際して、茂吉は「窿應上人挽歌」10首(『石泉』)を詠んでいる。
みほとけに茶呑茶碗ほどの大きさの床ずれありきと泣きかたるかな
右がはの麻痺に堪へたる御体ぞとおもへば九とせは悲しくもあるか
右半身麻痺の生活が9年にも及び、身体には大きな褥瘡ができていた。茂吉の悲痛な思いがよく伝わる。
本堂裏手に立つ「一向杉」。
一向上人が荼毘に付された後に植えられたと伝えられる杉で、樹齢700年。高さ30メートル、幹の周囲は5メートルになる。途中から太く枝分かれしている姿が印象的だ。