JR米原駅から約4キロ、旧中山道の番場宿から少し入った所にある。
本堂の額は後水尾天皇の宸筆で、元禄11年(1698年)のもの。
この寺の第49世の佐原窿應(「窿」は正しくはウ冠)は、斎藤茂吉が幼少時に手習いを受けた人物。茂吉の生家近くの宝泉寺の住職を長く務めた後、大正8年に蓮華寺住職となり昭和6年に亡くなった。
本堂左手に立つ茂吉の歌碑。
「松かぜのおと聞くときはいにしへの聖のごとくわれは寂しむ」
本堂の脇には、こんなふうに茂吉の歌の掲示もある。
斎藤茂吉は生涯に4度この寺を訪れ、それぞれ歌を残している。
この寺に窿應和尚よろこびて焦したる湯葉われに食はしむ
『つゆじも』 大正10年「長崎を去り東上」に3首
茂吉には何かうまきもの食はしめと言ひたまふ和尚のこゑぞきこゆる
『ともしび』 大正14年「近江蓮華寺行其一、其二」計12首
となり間に常臥しいます上人は茂吉の顔が見えぬといひたまふ
『たかはら』 昭和5年「近江番場八葉山蓮華寺小吟」19首
窿應上人のつひのはふりとわが妻も二人はともにこの山に居り
『白桃』 昭和8年「番場蓮華寺」5首
さらに『石泉』の昭和6年「窿應上人挽歌」10首も加えれば、茂吉が蓮華寺を詠んだ歌は約50首にのぼる。まさに「斎藤茂吉のファンなら一度は行ってみたい場所」(永田和宏『京都うた紀行』)なのである。