2020年09月07日

外山滋比古『省略の文学』


今年7月に亡くなった著者の切れ字を中心とした俳句論、日本語論、日本文化論など、計18篇が収められている。短詩型文学の実作者でも研究者でもないが、内容は示唆に富んで実に面白い。

切られた言葉が大きな表現効果を持つのは、それにつづく沈黙の空間で残響が増幅されるからである。
切字の切れ方は連句における句と付句の距離を原型としているのではなかろうか。連句における句と句の空間は小さくない。
俳句においては作者自身の作意ですら絶対的権威をもっていない。
作者と読者とが対話的コミュニケイションの場をもっているところに、俳句があのような短詩型で定立しえたもう一つの理由がある。
ことばを最大限に生かして使うには、一つ一つのことばをなるべく離して、大きな空間を支配するように配列すればよいはずである。それには、囲碁における布石が参考になる。
もし、人間関係によってことばづかいが違ってくるものならば、逆に、ことばづかいによって人間関係が決定されるという命題も成立するはずである。

40年以上前に書かれた本であるが、少しも古びていない。深い思索に基づいた論考は、ちょっとやそっとで古びたりはしないのだ。

人間でなくてはできないと思われていた作業が次々に機械によって行なわれるに至って、われわれは人間の能力の再認識をせまられているのである。新しい技術文化は新しい人間観の確立を求める。
教育というものは元来、保守的であるから、新しい時代に適応するのにいつも遅れがちになるが。まだ人間をコピー的活動から解放しようとはしていない。相変わらず記憶中心の知識の詰め込みを行なっているが、それは、人間が記憶する唯一の機械であった時代の要求に基づいた教育そのままである。

こうした文章は、近年のAIの発達やアクティブラーニングの推進といった状況を、はるかに先取りしたものだろう。この人はすごいな。

1976年4月25日、中央公論社、950円。


posted by 松村正直 at 23:12| Comment(0) | | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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