第10歌集『夏の辻』(2013年)以降の作品617首を収めた遺歌集。作者は2019年6月28日に89歳で亡くなった。
亡き人の蔵書のゆくへ思ふなりあつらに雪の降りし夕ぐれ
風よけて静止画像となりてゐる蝶の交(つが)ひも少しかげりぬ
さまざまな笑ひ方などして遊ぶ玻璃のむかうに寒椿咲く
古(いにしへ)は千ほども色彩(いろ)を言ひ分けて人はゆたかにありしと聞けり
盛りあがる卵黄割りつ生卵呑むは人間と蛇のみといふ
子のなきを羨しと寄り来ふり向きざま一刀に切ることばが欲しき
人もけものも子をつれてゐる動物園に来て抱けるかたちつくづくと見ぬ
眼薬の落ちてくる間よまなうらを駆け抜けてゆく人の群見ゆ
胸ふかくギター抱へて内面は小さき音のみに出ると言ひしも
穴あきし帽子をかぶり終日を釣りゐる父はをらず鴨浮く
庭住みの大き蝸牛を踏み破(や)りし足裏をこする音消ゆるまで
重なりて土俵の下に落下する肉体の弾力寝際に思ふ
呼子笛吹きたてながら保護者のみ目立つ子どもの神輿巡りぬ
転びたるままに仰げる高き空何の救ひもみせず澄みをり
軽装の看護師たちのゆきちがふ身軽さまぶし御用納めの日
1首目、大切にしていた蔵書も、亡くなれば処分されてしまう。
2首目、葉の影などで交尾しているところ。「静止画像」がいい。
3首目、一人の部屋で窓ガラスに向かって笑顔を作って遊ぶ。
4首目、微妙な色の違いを感じ分けて表す言葉を持っていたのだ。
5首目、「人間と蛇のみ」だったとは!生卵を食べるのが怖くなる。
6首目、子を持たぬことに対する本人にしかわからない激しい思い。
7首目、檻の中の動物も見ている人間も、それぞれ子を抱いている。
8首目、目薬が落ちる一瞬、走馬灯のようにめぐる記憶の中の人々。
9首目、演奏する時、大きな音ではなく小さな音に感情が滲み出る。
10首目、釣り好きな父だったのだろう。幻のように目に浮かぶ。
11首目、殻が割れる無残な音と感触が足裏にこびりついている。
12首目、力士の肉体の重量感がふいに甦る。「重なりて」がいい。
13首目、主役の子どもよりも、親たちの方が盛り上がっている。
14首目、自らの老いを詠んだ歌。仰向けに転倒して見た空の青さ。
15首目、入院して迎えた年末。自分は家に帰れずに年を越すのだ。
2020年7月15日、砂子屋書房、3000円。