樺太戦の特徴は、一般住民からなる国民義勇隊が実戦に参加したことである。国民義勇隊は、本土決戦を控え一億玉砕が叫ばれるなか、一般住民を地域・職域・学校などの単位で編成して、作戦の後方業務・警防補助・戦災復旧・重要物資輸送などに当たらせることを目的として結成された。
樺太では、ソ連軍の侵入によって「本土決戦」が現実にはじまり、樺太の一般住民で編成された国民義勇隊は、一四日に軍の指揮下に入って国民義勇戦闘隊へと転移し、住民の一部は、日本刀や猟銃、竹槍などを武器として実際に戦闘支援に従事していたのである。
樺太ではこのように、兵隊だけでなく一般住民も駆り出される戦闘が行われたのであった。けれども、こうした事実は今ではほとんど忘れ去られている。
内地の南端である沖縄での米軍との戦闘の記憶は戦後に長く語り継がれても、内地の北端で起きたソ連軍との戦闘はなぜか語り継がれることはなかった。日本人だけでなく、少数民族を巻き込んだ樺太戦の忘却は、戦後日本で語り継がれた戦争体験の矛盾を象徴している。
この忘却の最大の理由は、現在沖縄が日本領であるのに対して、樺太は日本の領土ではないためである。戦後「日本」でなくなった樺太に対して、日本人の関心が薄れるのはある意味止むを得ないことだ。
けれども、そうした考え方で行けば、もし沖縄が日本に返還されずに今もアメリカの領土であったなら、日本人は沖縄戦を語り継ぐこともなかったということになる。はたして、それで良いのだろうか?
75年前の樺太では、今日(8月21日)も依然として激しい戦闘が継続中である。
カミッシュ峠の地域での日本軍の粘り強さは、サハリンの南に第113旅団の進軍を遅らせた。北部では、日本兵と貯蓄者の別々のグループが橋を爆破し、道路をクリアし、第56ライフル部隊の高度な分遣隊の前進のペースを遅くしました。この時点で、兵士たちはアヨロ(ガステッロ)に到着しただけです。
これは、ロシアのサイト「50度線からのリポート」からの自動翻訳による記述。「カミッシュ峠」とあるのは、真岡から豊原へ向かう途中にある激戦地、熊笹峠のことだろうか。