2007年に講談社より刊行された本の文庫化。
何ともすごい本である。
1974年に東久留米市立第七小学校において形成された強固な地域共同体(滝山コミューン)とは何だったのか。自らの小学校時代の暗い記憶を掘り起こし、関係者への取材も交えて、著者はその原因となった教育のあり方を突き止めていく。その背景には、全国生活指導研究協議会(全生研)の主導した集団主義教育や「学級集団づくり」があった。
全生研が「学級集団づくり」を進めてゆく上で、「ソビエト市民生活」に近い「四〜五階のアパート形式で、エレベーターなしの階段式」の滝山団地がいかに“理想的”な環境にあったかは、こうした観点からも裏付けられるように思われる。
私にとっての「安住できる場所」は、しだいに四谷大塚になってゆく。後に見るように、七小で疎外感や孤立を味わえば味わうほど、塾通いという、表面的には批判されるべき日曜の一日が、私にとっては七小の児童以外の集団に帰属する貴重な機会となった。
児童により構成される選挙管理委員会が、4年以上の全校児童から立候補者を募り、委員長、副委員長、書記を同じく4年以上の全校児童の投票による直接選挙で選ぶことにしたのである。
こうした記述を読みながら、私も自分の小学校時代を思い出す。著者よりは8歳年下で、住んでいたのも西武沿線ではなく小田急沿線であったが、東京郊外のベッドタウンで育ったこと、四谷大塚進学教室に通っていたこと、児童代表委員会の選挙があったことなど、いくつも共通点がある。
この本を読んで痛ましく思うのは、教師も親もみな良いことをしているという強い意識を持っていたことである。実際に、教育に熱心な教師であり、子供の将来を思う親たちであったのだ。でも、そうした善意が必ずしも良い結果を生むとは限らないのである。
私は小学校生活に普通になじんでいたと思うけれど、本当のところはどうだったのだろう。
2010年6月15日、講談社文庫、600円。
この怖さとは、話の筋の怖さというより、著者が記憶力と取材力を総動員して、自身の仮説を検証しようとする執着心に対して。だから、著者の描く物語から外れる同級生の言葉に、ほっとしたような気持ちになった。
当時の団地の状況を、ソ連的な「理想」を補助線に理解できる部分があったのはたしか。個人的には、その後の団地コミュニティの推移と、現在の多様な姿(高齢化、多国籍化等)が興味深いと思っているが、その原点を把握するという意味で非常に有益だった。
でも、全生研や集団教育批判が目的なのではなく、自身のトラウマと向き合うことが必要だったのだと思う。
「滝山コミューン」という呼び方には、もちろん批判も入っているけれど、一方で愛着や愛惜の気持ちも込められている。歴史や団地や鉄道など、著者の関心を持つことの原点がすべてそこにあるわけだから。
サハリンに行った時に、日本の団地みたいな建物がけっこうあったよね。ああいうものはアメリカや西欧にはないもので、実は非常に社会主義的な建築物。
他にも、例えば「第五小学校」みたいな命名にも、そういう要素はあるのかもしれない。これは、きちんと調べてないんだけど、京都に住むようになって、数字を付けた小学校名が別に一般的でないことに気づかされた。
ところで、私は大学から近い多摩ニュータウンの調査を細々と続けてきた。NT開発初期に引っ越して来て、いろいろな社会運動に関わってきた女性たちの話を聞いてきた。既存のコミュニティがなく、インフラも未整備だったから、自分たちでまちをつくる必要があった。それは大変だったけれども、人によっては、民主主義の社会を一からつくることのできる場として魅力的に映ったようだ。それから50年近くの年月が流れ、現在はオールドタウンと言われたりする街だけれど、他者が簡単に良し悪しを評価してよいわけではない。だから、生きてきた証しを残そうと思っている。
著者の記憶がよく残っているのは、それだけ忘れられないトラウマ的なものでもあるということ。著者が自らの関心の原点と向き合い、それを表現するという気持ちは、私も似たようなことをしているので、わかる気がする。本書を読んで怖いと感じたのは、原点と向き合うという表現が、おのずと私の原点もさらされるように感じたからだと思う。
「じかんようきゅうのとき、こたけくんがいないので、ほかのはんにとられます」
「はつげんけんも、あまりとれなかった」
何のことを言っているのか正確には思い出せませんが、そう言えば、授業で答えが分かった時、“班”の中で即座に回答者を決め、その回答者を指差しながら全員が手を挙げる、というようなシステムを採っていました。
手紙を貰ったのは1973年2月、当時はそれが普通でしたが(祖母は変だと言っていた)、きっと全生研の「学級集団作り」に基づく授業形態だったのだろうと思います。
なお私が子供時代を過ごした団地もご多分に漏れず高齢化が進んでおり、朝ゴミ出しに行ったら、公園でラジオ体操をしているのはご老人ばかり、商店街もほとんど閉業していて、かつての店舗はことごとく高齢者のための施設や集会場に変貌していました。
「お見舞いの手紙」の話、興味深いですね。その時はたぶん何とも思ってなかったのでしょうが、今から思えば変なことをやっていたなあと感じることが、私にもいろいろあります。でも、そうした手紙が残っていなければ忘れてしまう出来事かもしれません。貴重なお話、ありがとうございました。