小説や映画で登場人物が咳をするシーンがあったとする。
日常生活では別に風邪を引いていなくても、咳が出ることは時々ある。そのこと自体にほとんど意味はない。でも、小説や映画では違う。意味もなく咳をするシーンを入れたりはしない。必ず後でその人が病気だったり死んだりする伏線になっている。
私たちの普段の生活においては「意味のないこと」がいくらでもある。何かが起きても、何の意味もなかったり、意味があったとしてもそれに気づかずに過ぎてしまう。
それに対して、小説や映画の世界は、言ってみれば全てが意味を持つ世界だ。作品世界は分量や時間に限りがあるので、意味のないことを入れておくことはできない。映画撮影の現場でたまたま咳が出てしまったら、きっと撮り直しになるだろう。
伏線は必ず回収される。そうでなければ、「あの咳は何だったんだろう?」ということになってしまうのだ。
では、短歌においてはどうだろう。
・・・ということを、最近よく考えている。
短歌と伏線――この数日ずっと考えておりました。歌集や連作ならば何となくイメージできるのですが、おっしゃっているのは三十一文字の中のことだろうか。
古典和歌の序詞なら、それ自体直接的な意味はなくても、その一首を詩歌として成立させるための雰囲気作りという役割があるし・・・でも序詞は言いっ放しで、回収しないしなあ。
まだ考えています。