これまでわれわれは自分の国の言葉を国語≠ニ呼びならわしてきた。外へ向いていた目が内へ向うようになって発見した言葉は、その国語とはすこし違っているように感じられる。その気持がこのごろ使われる日本語≠ノこめられる。
「国語」から「日本語」へ、という流れを既にはっきりと見通していることに驚く。
アメリカの大学の講義では、先生がはじめに一年間の予定をプリントか何かにして学生に渡す。よほどのことがないかぎり、その予定は変更されることがない。われわれの行き当たりばったりとは大変な違いである。
現在は日本の大学でもシラバスに基づいた講義が行われている。そうした変化を先取りした記述と言っていいだろう。
単語一つでも翻訳不能のものがいくらでもある。このごろ日本でも使われるようになったプライヴァシイという語にしても、まだ訳語はない。このままカタカナの日本語になる気配もある。
実際にその通りになっている。こうした実証に耐えられた本だけがロングセラーとなって残っていくのだろう。
日本語の辞書の始末の悪いところは、引く人間が日本語を知っているだろうという前提に立っていることである。わかる人にはわかる。しかし、わからぬ人にはついにわからない。これでは辞書の存在理由はない。
私たちの使っている「国語辞典」は、「日本語辞典」としての役割を十分に果たしているのか。例えば、外国人が日本語を学習する際にも使える辞典かということだ。この問い掛けは、今もなお有効なままだと思う。
1976年5月25日初版、2018年12月20日第32版、中公新書、740円。