武力戦は一億一心の体あたりで、完勝成らむとしてゐるが、次いで来るものは文化戦である。
文化戦の一等先に立つ大事なものは、どうしても言葉である。これを思ふと、我々の国語は、これからの戦の、飛行機とも、戦車とも爆弾とも魚雷ともなる武器である。
日本語を「飛行機」「戦車」「爆弾」「魚雷」などの武器と重ねて論じているところに驚く。こうした戦時下の翼賛的な文章を現在の目から批判するのは簡単なことだ。けれども、このようなナショナリズムの表れ方は、例えば古くは正岡子規などにも見られる。
従来の和歌を以て日本文学の基礎とし、城壁と為さんとするは、弓矢剣槍を以て戦はんとすると同じ事にて、明治時代に行はるべき事にては無之候。今日軍艦を購ひ、大砲を購ひ、巨額の金を外国に出すも、畢竟日本国を固むるに外ならず、されば僅少の金額にて購ひ得べき外国の文学思想抔(など)は、続々輸入して日本文学の城壁を固めたく存候。
正岡子規「六たび歌よみに与ふる書」
子規の論は肯定的に、金田一の論は否定的に、今では受け止められることだろう。でも実際には、この両者は明治と昭和という隔たりがあるだけで、ひとつながりの流れにあるものなのだと思う。