哲学者で京都大学教授である著者が、京都市内を散策しながら、哲学、文学、歴史、そして〈いのち〉について思索をめぐらしていく。
登場する人物は、鈴木大拙、西田幾多郎、伊東静雄、柳宗悦、尹東柱、桓武天皇、塚本邦雄、紀貫之、中原中也、頼山陽、梶井基次郎、三島由紀夫、川端康成、源融、森鴎外、後白河法皇、世阿弥、藤原俊成、道元など。実に幅広い。
〈第三のいのち〉は、わたしと他者との〈あいだ〉、わたしとものとの〈あいだ〉に立ち現われる。
近代以降の政治権力というものは、国民の生命を奪う権力ではなく、むしろ逆に国民の生命を維持し、管理し、統御し、規律化する権力となった。
六条よりやや南側を東西に走っているのが正面通である。なんの「正面」かというと、かつて豊臣秀吉がいまの京都国立博物館の北側に造営した大仏の正面なのである。
和歌についての記述も多く、有名な古今和歌集の仮名序についてこんなことを書いている。
この言葉を、「人間だけでなく、鶯や蛙までが歌をよむのだ」と解釈してしまうと、日本文化を理解できない。逆である。「鶯や蛙、生きとし生けるものすべてが歌をよんでいる、しかしそこには言葉は必要ない。人間だけが、言葉という余計なものを介在させて歌をよんでいるのだ」と解釈しなければならない。人間中心主義ではないのだ。
なるほどなあと思う。
時おり著者は自身の思索にツッコミを入れて、自分で「知らぬ。」と答える。非常に真面目な内容の本なのだが、そんなふうにお茶目なところもあって楽しい。
2019年2月10日、ちくま新書、900円。
古今和歌集の仮名序は、鶯の囀りや蛙の鳴き声は、それ自体に意味は無くとも歌としての韻律がある。その韻律や音色を聴いて、人間は感興を覚え歌を詠むのだ、と言っているように思います。
現代短歌は概して自由律に対し良く言えば寛容、韻律ということについて少々無頓着であるように感じております。