ふと一冊の本を想った。最初に題名が浮かんだ。「豆腐屋の四季」。小さな平凡な豆腐屋の、過ぎゆく一年の日々を文と歌で綴ってみようというのだ。過去の思い出も過去の歌もちりばめて入れよう。それは、ひっそりした退屈で平凡な本にしかならぬだろう。登場者は、私と妻と老父と、姉や弟たちだけだろう。みな、平凡な市民に過ぎない。繰り返される日々も、華やぎに遠く、ただ黙々と続く労働のみだ。
このようにして書き出された文章は、やがて自費出版の本になり(1968年)、翌年には講談社から刊行されてベストセラーになり、緒形拳主演でテレビドラマ化された。
泥のごとできそこないし豆腐投げ怒れる夜のまだ明けざらん
睫毛(まつげ)まで今朝は濡れつつ豆腐売るつつじ咲く頃霧多き街
土間隅にひそむ沢蟹泡抱きて夜業の火色(ほいろ)に薄く染まりぬ
みごもりて平和の願い云いそめし妻はじめての投票を待つ
山国川かくも青きに遊びいて白鷺けさは十二羽か見ゆ
豆腐屋の日常を詠んだ歌の中に、4首目のような社会的関心を窺がわせる歌が時おりまじる。ベトナム戦争や安保闘争など、時代は政治の季節を迎えていた。
やがて松下は市民運動に参加するようになり、短歌ではなくノンフィクションを表現手段にしていく。それは、なぜだったのか。
『苦海浄土』を書いた石牟礼道子もまた、文学的出発点は短歌であった。松下や石牟礼の例は、短歌に対する一つの大きな問い掛けのような気がしてならない。