2013年8月に講談社から刊行された『誰も戦争を教えてくれなかった』を改題、加筆して文庫化したもの。
国内外の様々な戦争博物館を訪ね、戦争とは何か、戦争の記憶を受け継ぐことは可能か、といった問題を考察している。
訪れるのは、アリゾナ・メモリアル(ハワイ)、アウシュビッツ博物館(ポーランド)、ザクセンハウゼン記念館・博物館(ドイツ)、偽満皇宮博物院(長春)、九・一八歴史博物館(瀋陽)、侵華日軍南京大屠殺遇難同胞紀念館(南京)、独立記念館(韓国)、戦争記念館(韓国)、沖縄県平和祈念資料館、舞鶴引揚記念館(京都)、予科練平和記念館(茨城)など。国によって、また施設によって、戦争の捉え方や描き方には大きな違いがある。
アリゾナ・メモリアルが「爽やか」で「勝利」を祝う「楽しい」場所であるのは、ある意味で当たり前のことなのかも知れない。なぜならば、日本と違ってアメリカはいま現在も戦争を行っている国だからだ。
戦争博物館の「楽しさ」には、二つの「楽しさ」が入り交じっている。一つは博物館の設計レベルでの「楽しさ」、そしてもう一つは、戦争自体の「楽しさ」だ。戦争博物館の最大のコンテンツである戦争、それは楽しいものなのだ。
戦地や戦跡を巡る旅というのは、近代における最もメジャーな旅のスタイルの一つだ。今よりも遥かに娯楽が少ない時代、戦争というのは庶民にとって最大のエンターテインメントだった。
やや挑発的な書き方ではあるけれど、大事な観点だと思う。日本では毎年8月になると戦争の悲惨さを伝える記事や番組が作られ、「二度と悲劇を繰り返してはならない」といった話でまとめられる。でも、そうした方法が既にマンネリ化して一種の思考停止に陥っている面もあるのではないか。
戦争博物館やホロコースト記念碑が悲惨さを訴える「戦争」とは、もっぱら約70年も前の「古い戦争」に過ぎないことになる。ということは、「国家が戦争を記憶する」「国家が戦争の悲惨さを訴える」ということ自体、もしかしたら現代の「小さな戦争」に対する想像力を奪うことに繋がるのかも知れない。
これも非常に鋭い指摘だと思う。私たちが次に経験するであろう(あるいは既に経験している)戦争は、当然のことながら70年以上前の「あの戦争」とは全く違った形の戦争になるはずなのだ。
他にも、遊就館と沖縄県平和祈念資料館が同じ会社(乃村工藝社)のプロデュースした施設であることや、アメリカ国防総省の宇宙関連予算がNASAを上回っていること、厚生省や国民健康保険制度の発足に日中戦争が関わっていたことなど、初めて知る話が多く勉強になった。
著者の考えや主張にはいくつか異論もあるのだけれど、それはそれとして、真摯な内容の一冊だと思う。
2015年7月22日、講談社α文庫、850円。