山の上にひろごる空よ年一度峠を越えて桃売りが来る
酒井久美子
毎年夏になると山深い集落を訪れる桃の行商人。「峠を越えて」に風土が感じられる。集落の人たちも桃売りが来るのを楽しみに待っているのだ。
けふ何を食べたかなどでしめくくる夜の電話はくらしの栞
鮫島浩子
「くらしの栞」とはなんて素敵な言葉だろう。特に用件があるわけではなく、今日も一日無事に過ごせたことを互いに報告し合うための電話である。
おいしくて唇を吸いあう二人かな終点知らず目を閉じている
滝友梨香
初句が新鮮な表現。作者はブラジル在住の方だが、乗物の席でずっとキスしている男女の情熱的な世界を、「おいしくて」の一言で見事に表している。
煙突の数本が見ゆ関係のもはや変わらぬ男女のごとし
金田光世
互いに距離を保ったままに立つ煙突を男女関係に喩えたのがおもしろい。知り合ってしばらくは様々な距離の変化があったのだが、もう変わらない。
三日前罠に掛かりし白鼻心おなじ場所にて雌もかかりぬ
吉岡洋子
パートナーの雄の匂いをたどって来たのだろうか。雄に続いて雌も同じ罠に掛かったところに、相手が害獣とはいえかすかな悲哀を感じたのである。
杖三本藤棚の下に立てかけてアイスを食べる老婆三人
王生令子
何ともほのぼのとした光景である。散歩の途中でちょっとひと休み。初句「杖三本」から結句「老婆三人」へとつながる数詞がうまく働いている。
塩引き鮭数多吊らるるとびらの絵に変形性股関節症の会報届く
倉谷節子
上句から下句への展開に驚かされた歌。干されて乾いた鮭の姿と「変形性股関節症」がかすかに響き合う。単なる偶然のイラストなのだろうけれど。