文体論、物語論で活躍中の著者であるが、今回のテーマは「国語」。高校で7年間国語を教えたこともある著者が、国語の授業はなぜつまらないのか、国語の授業は何を目指しているのかを解き明かしつつ、文学か論理かといった対立を超えて豊かな国語力を身に付ける方法を記している。
内容はすべて「国語」、特に現代文の話なのだが、短歌とも共通する部分が非常に多いと感じた。
近現代の小説では、「説明するな、描写しろ」とよく言われる。「若さ」を表すのに、「若い」と書くのではなく、面皰(にきび)を描く。夏の暑さを描くのに、影の濃さを描く。
解釈が分かれることは悪いことではない。むしろ、様々な解釈ができるから小説は面白い。つまり小説においては、その出来事の解釈を書く側は一方的に決めない。解釈や価値判断を行うのは読者にゆだねる。
ただし、よく誤解されるように、読者はどんな勝手な読みをしてもいいということではない。テクストが完全に決定するわけでもないし、読者が完全に決定権を持っているわけでもない。あくまでもその中間である。
言うまでもないが、文章を読む力も書く力もどちらも大切である。文章がどのようになっているのかを理解すれば読む力も上がるし、書く力にもつながっていく。
文章は二次元でも三次元でもないから、順番を追って読んでいくしかない。このため、どういう順番で叙述していくかが、読み手にとって重要であるし、従って書き手にも重要だということになる。
こうした文章はすべて「短歌」にも当て嵌まる話だろう。そう考えると、例えば歌会というのは相当に国語力の身に付く場であるのかもしれない。もちろん、国語力をつけるために短歌をやっているわけではないのだけれど。
2019年1月10日、ちくま新書、820円。