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私がこれまでに出した歌集・歌書は以下の11冊です。
【歌集】
・『駅へ』(2001年、ながらみ書房)
・『駅へ』新装版(2021年、野兎舎)*在庫あり
野兎舎オンラインストア
アマゾンKindle版
・『やさしい鮫』(2006年、ながらみ書房)
・『午前3時を過ぎて』(2014年、六花書林)
・『風のおとうと』(2017年、六花書林)
・『紫のひと』(2019年、短歌研究社)
【歌書】
・『短歌は記憶する』(2010年、六花書林)*在庫あり
・『高安国世の手紙』(2013年、六花書林)
・『樺太を訪れた歌人たち』(2016年、ながらみ書房)*在庫あり
・『戦争の歌』(2018年、笠間書院)
・『踊り場からの眺め』(2021年、六花書林)*在庫あり
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私がドイツ文学を専攻していたのは大学の2年間だけのことで、その後は特にドイツ文学関連の研究や仕事など何もしておりません。短歌を始めたのは26歳の時ですので、私の中ではドイツ文学と短歌はまったくつながりがないですね。
私は二年近くもやもやした疑問を先生にお尋ねしようと思いました。
それは二年前の「nhk短歌」のなかで、川野里子さんが するだろうぼくをすてたものがたりマシュマロ口にほおばりながら (村木道彦さんの有名な短歌です) この歌の意味を秀一郎君とあむちゃんに尋ねました。二人は分からないとこたえたのですが、川野里子さんは、別れた彼女を補うんですよ、そうすれば元彼女が色々な場面で振られた僕の話をする情景が浮かび上がります。と教えており二人も「ああそうか、室rrんの話なのか」と納得していました。
当然歌には様々な解釈が可能ですが、失恋の歌と詠んでしまえば、最低の解釈だと思いました。永田和宏氏が「現代秀歌」の中で「村木道彦を考えるとき、」彼が登場した時代を押さえておくことがだいせつである。」と述べています。村木道彦は、大学闘争の敗北を見つめ、政治的敗北と経済的繁栄(国民の幸福度の向上)に直面して、結果的に知性の敗北を感じとった人物であり、この歌は敗北感の表出でなければ意味がありません。
先生にお尋ねしたいのは、川野里子さんがテレビでこの歌を失恋の歌として取り上げる程、この歌は失恋の歌として詠まれるのが普通なのでしょうか。永田和宏氏のように時代性を考える詠みは少ないのでしょうか。
4月から「nhk短歌」の選者が変わりますので、このタイミングでお尋ねした次第です。
時間があれば先生のお考えを聞きたいと思いました。
「するだろう」の歌については、川野さんのように失恋の歌と解釈するのがたぶん一般的だと思います。例えば、俵万智さんも『短歌をよむ』の中で、村木の他の失恋の歌も引きながら、「自分をふった相手はというと、マシュマロを食べたりしながら、気楽に友だちにおしゃべりしているのだ」と記しています。
ただ、この歌は「するだろう」の主語が省略されていますので、一首で読むのはけっこう難しいと思います。短歌で主語が省略されている場合、ふつうは「われ」を補って読みますから、自分の話という読みも当然出ると思います。そのあたりについては、永田さんが「超弩級の読み違い」という文章を書かれています。
https://toutankakai.com/magazine/post/5183/
まあ、歌の解釈に正解も間違いもないのですが、ご参考までに。