このところ竹山広の歌を読み返している。
歌に詠まれた原爆体験の重みだけでなく、表現力にしばしば唸らされる。
水のへに到り得し手をうち重ねいづれが先に死にし母と子
『とこしへの川』
四句目の「いづれが先に死にし」があることによって、過去の時間が生々しく再生される。〈母と子の死体〉の静止画ではなく、〈母と子が死んでゆくありさま〉を映した動画のような、凄みのある歌だ。
例えば四句目を変えて「水のへに到り得し手をうち重ね寄り添ふやうに死にし母と子」などとしてみれば、その違いがはっきりわかるだろう。
竹山広は人の好いおじさんなんかではない。
とても怖い人だと思う。
誰かがこの歌を読むたびに、この「母と子」はいったん歌の中で生き返り、そしてまた死んでゆく。歌に詠まれなければ永遠に死んだままだった二人が、歌の中では何度も生き返らされ、何度も殺されてゆくのだ。
実に怖い歌だと思う。
それは原爆の怖さであるとともに、竹山広の表現力の怖さでもある。