2018年08月30日

「角川短歌」2018年9月号

荻原裕幸の歌壇時評を読んで、強い引っ掛かりを覚えた。

この歌壇時評では、歌集を直に扱うのはやめておこうと考えていた。と言うのは、私のように、歌壇配慮的な発想を嫌いながらも避け切れない者は、扱う歌集の取捨や選択のバランスを考えるだけで、かなり疲弊してしまうし、書けば書くほど総花的になり、ゆとりがあるはずの紙幅をほぼ費やしてしまうからである。人目など気にせずに本音で書くしかない、とは思うのだけれど、自分自身が意のままにならないもどかしさがある。ただ、そうは言うものの、先月、加藤治郎の新歌集を読んで、反射的につい書いてしまった。しかも、これから書こうとしているのは、加藤のそれと同時期に刊行された、穂村弘の新歌集『水中翼船炎上中』(講談社)についてなのである。お察しいただけるかとは思うけれど、この二人は、私にとって、たぶん特別な存在なのである。

何なんだろう、この言い訳がましい文章は。
ちょっと驚いてしまう。

加藤治郎の歌集も穂村弘の歌集もそれぞれ評判になった本で、時評で取り上げること自体には何の異論もない。ただ、この書き方はどうなんだ。

「お察しいただけるかとは思うけれど」って、一体読者に何を察しろと言うんだろう。歌集は取り上げないと決めていたけれど、この二人は私の特別なお友達だから取り上げるよっていうこと?

何だか非常に嫌なものを読まされてしまった。
この14行分は全部カットした方が良かったと思う。
(それ以外の部分は面白かったのだが)

posted by 松村正直 at 19:16| Comment(0) | 短歌誌・同人誌 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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