2018年04月17日

『サハリン残留』の続き


先月見た映画「北の桜守」は樺太西海岸の恵須取(えすとる)から引き揚げてきた家族の物語であった。大戦末期のソ連軍の侵攻を受けて樺太南部に避難する人々の姿が映画には描かれていたが、それは『サハリン残留』にも何度も記されている。

塔路の住民は続々と避難を始めた。百合子も養父母とともに「内恵(ないけい)道路」をたどって「樺太東線」を南下して大泊(コルサコフ)に向かい、そこからなんとか北海道へ脱出ができるだろうと見込んでいた。
「内恵道路」は内路村(ガステロ)から恵須取町(ウグレゴルスク)までの道で、敗戦時に避難行をした人びとのあいだでは「死内恵道路」とも呼ばれた。東線に接続する内路までは、バスの運行も中断していたので、徒歩で移動するしかなかった。
樺太では、八月一五日の「玉音放送」では戦争が終わらなかった。樺太最大の都市となっていた恵須取にソ連軍が上陸した(八月一六日)。
恵須取には鉄道が開通しておらず、港町の大泊や真岡がある南部に避難するためには、樺太山脈を越えて、東海岸の内路までの九〇キロの内恵道路か、西海岸沿いを南下し、珍内を通過し、久春内までのおよそ一〇〇キロの珍恵道路を踏破するしかなかった。

「八月一五日の終戦」や「日本で唯一の地上戦が行われた沖縄」という言説からこぼれ落ちてしまった史実が、ここには記されている。

 樺太の引揚者らの働けるひと平(たひら)薄荷(はつか)の畝は
 ととのふ                  木俣修『呼べば谺』


posted by 松村正直 at 08:00| Comment(6) | 樺太・千島・アイヌ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
初めまして。
『樺太を訪れた歌人たち』を読ませていただいた者です。
私は歌については全く疎いのですが、タイトルにひかれて
購入し大変興味深く拝見し楽しませていただきました。

私には樺太で生まれ育った祖母がいるのですが、
来月100歳になります。
未だに記憶が明瞭でよく昔話を聞いております。

祖母は大泊高等女学校で美術教師をしていたのですが、
昭和14年に敷香町で行なわれた研修会に参加したそうです。
研修会の帰路、敷香から恵須取までタクシーで移動した
ようなのですが、
その時に豊原の中学校長ら2名と、樺太を訪れていた有名な
詩人(祖母はそういっていました)の4人で同乗したと聞いて
いました。
先日話を聞いた時は祖母も詩人の名前が思い出せなかったのですが、
先生のご本を読ませていただいて、
おそらくその方が土岐善麿だとわかりました。

タクシーを何度も止めて色々な物を見聞していたから。
道中とても時間がかかったと申しておりました。
近日ご本を持参し、また祖母宅を訪問して
話を聞いてきたいと思います。

突然の長文、大変失礼致しました。


Posted by 笠井次郎 at 2018年05月12日 13:21
笠井次郎様
初めまして。このたびは拙著『樺太を訪れた歌人たち』をお読みくださり、ありがとうございます。
お祖母様が土岐善麿のタクシーに同乗されたという話、たいへん興味深いです。時期や旅程など一致する点が多いので可能性が高そうですね。また何か新しことがわかりましたら、ぜひ教えて下さい。
お祖母様は来月で100歳を迎えられるとのこと。いつまでもお元気でいらっしゃいますように。
Posted by 松村正直 at 2018年05月13日 06:32
松村先生 ご返信ありがとうございます。
先ほど祖母と話をしてまいりました。

先生の本に書いてあった『樺太夏期大学』の名を伝えたら、研修会は間違いなくそれだったと申しておりました。
教員1年目の祖母を、社会見学をかねて大泊高等女学校の校長が連れていってくれたそうです。
土岐善麿(哀果)の名前は覚えていませんでしたが、講演は聞いたそうです。
土岐善麿の名前を聞いていたら、どこかの学校の校歌にその名前を見たと申していたので、おそらく敷香の学校だと思います。

タクシーに同乗したのは、土岐善麿と真岡中学校、真岡高等女学校の校長(豊原ではなかった)と祖母の4人でした。
恵須取に土岐善麿さんらが向うと聞いた大泊の校長が
祖母も乗せて行って欲しいと頼んでくれたそうです。
当時21歳の祖母は歳かさの違う人達と同乗するのが随分と嫌だったと申しておりました。
やはり何度もタクシーを止めて何やら見物していたので、
道中が一日がかりで大変だったそうです。
以上が覚えている当時の記憶でした。

実は私の曾祖父の一人が明治から大正期に釧路で病院を営んでいたのですが、そこに石川啄木が出入りしていて小説『病院の窓』のモデルになりました。
病院の食堂で職員にまざり啄木が食事をしていたと聞いています。

啄木と土岐善麿が縁の深い間柄だったとこの度始めてり、
面白い事もあるものだと思った次第です。
とりとめもない長文で申し訳ありませんでした、失礼いたします。

Posted by 笠井次郎 at 2018年05月13日 20:39
笠井次郎様

お祖母様の貴重なお話、ありがとうございます。80年近く前のことが少しずつ明らかになっていくようで、嬉しいです。

土岐善麿の『斜面の悒鬱』という本に樺太へ行った時の話が載っているのですが、そこに「内恵道路」という一節があります。

(以下、引用)
 樺太の国境、北緯五十度と四十九度との間を横断して東海岸から西海岸へ、敷香・内路・恵須取をつなぐ自動車道路が竣工したのは、昭和十二年で、工事は昭和九年から四年もかかつた。延長百二十七キロ余、鬱蒼たる原生密林を通じて、実に根気よく開墾したものである。

 八月一日から三日間敷香に催された夏期大学を終つた僕等は、講師の一人であつた汐見博士のところへ、北海道の登山旅行の途次、訪ねて来た大学生をも一行に加へ、二台に分乗して、この謂ゆる「内恵道路」を朝から快走したのであるが、内地で原生林とか密林とかいふのに比べると、この山林地帯には、しつとりとした幽邃の感は深くない。(・・・)
(以上、引用)

この分乗した二台の車のうちの一台に、土岐善麿やお祖母様が乗っていたのでしょう。

釧路の病院というのは笠井病院ですか!啄木と付き合いのあった看護婦梅川操の勤務先として日記にも出てきますね。土岐善麿は啄木の晩年の親友で一緒に雑誌を出す計画もあった仲です。

私はもともと函館に住んでいた時に啄木の歌を詠んで短歌を始めました(現在は京都に住んでいます)。啄木にはたいへん興味があり、来月末には函館、釧路、札幌と啄木関連の取材のために北海道へ行く予定です。

また、いろいろと教えて下さい。

Posted by 松村正直 at 2018年05月13日 23:29
松村先生、貴重なお話どうもありがとうございます。

そのようなお話が残っているのですね!
記憶力に自身がある祖母なのですが、さすがに高齢なものですから記憶があいまいなところがあるようです。
車2台に分乗していたとは聞いておりませんでした。
祖母も当時のことを思い出すのが嬉しいようなので、次に会う機会にこれらのお話をしてあげようと思います。

病院のことですが、共立笠井病院という名で私の父方の曾祖父が営んでおりました。
曾祖父は小奴とも交遊があったと聞いています。
私の亡くなったほうの祖母は早くに母親をなくしているのですが、母親の葬儀が終わり庭で弟妹達と遊んでいたら小奴がやってきて『私がお母さんになってやろうか』と言われたと話していました。
それを曾祖父に伝えたら『あいつまたそんなこと言って』と話していたそうです。

笠井病院は後に帯広に移動するのですが、
私の叔母が戦後病院に遊びに行った時、
ちょうど小奴が北海道を離れるという事で曾祖父に挨拶にきていたそうです。
印象はとても奇麗で上品なお婆さんとだったと言っていました。

私は全く啄木にも疎いもので
昨年釧路を訪れた際に、港文館で笠井病院の写真が展示してあり驚いたくらいです。
恥ずかしながら『病院の窓』と啄木日記も昨年始めて読みました‥
これから少し啄木の世界に興味を持ってみようと思っております。
Posted by 笠井次郎 at 2018年05月14日 13:06
笠井次郎様

小奴とも交流があったとは! 啄木ファンにはたまらない話ですね。来月、釧路にも行って港文館も見てくる予定です。

松村宛にメール(masanao-m@m7.dion.ne.jp)をいただけましたら、『斜面の悒鬱』の「内恵道路」の部分のコピーなどお送りします。

今後ともよろしくお願いします。
Posted by 松村正直 at 2018年05月18日 07:39
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