「八雁」5月号の渡辺幸一「「合評余滴」について思うこと」は、率直で歯に衣着せぬ書き方が印象的であった。歌をめぐる議論の大切さを述べた文章である。
大切なのは「誰の作品のどこがいいか(あるいは悪いか)、その理由は何か」を具体的に明らかにすることである。当然ながらそうでなければ議論は始まらない。
歌壇の現状や歌の批判などをする際に、一般論ではなく具体的な人名や作品を挙げることの大切さを指摘していて、確かにその通りだと思う。この点、歌人は少し優しすぎるのかもしれない。
「梁」92号の上村典子「「読み」は金字塔」は、短歌の読みについての話。いくつもの話題を挙げているのだが、「ね」や「レチサンス」の話もあって、ちょうど「角川短歌」5月号の歌壇時評に私も書いたところだったので、面白かった。
「未来」5月号の服部真里子「内的要請と外的要請」は山中千瀬や石井辰彦の折句の歌を挙げて、「作者の内面の表白」という短歌観に疑問を呈したもの。
作者が内面を表白した歌が、名歌となることは確かにある。しかしその確率は、外的要請が名歌を生む確率とさほど変わらないのではないか。(・・・)作者自身の「表白」より、外的要請によってにじみ出てしまう何かの方が、作者を深く反映することはないだろうか。
これは確かにその通りだと思うところがあって、例えば「題詠」と「自由題」で一首ずつ歌を出してもらったりすると、外的要請のある「題詠」の方が意外と良い歌が多かったりする。
(ただし、そもそも短歌においては「定型」が最大の外的要請になっているのではないかという疑問もある。)
「短歌研究」5月号の短歌時評「歌読みは何を信じるか」では、高島裕が「人の〈本心〉がまず実体として存在し、短歌作品は、言葉によってその〈本心〉を表現したもの(であるべき)だ」という短歌観を批判しており、服部の指摘ともつながる内容だと感じた。