2016年12月10日

山野井洋と幼児(その7)

「ポドゾル」の編集をしていた山野井洋は、幼い一人息子を病気で亡くしてしまう。先に引いた「四月集への挨拶」の続きに、山野井はこんな決意を記している。

 浄を死なしめてよりひとしほ、私は亜寒帯への使命感を覚えて居ります。ささやかな志の一端として、本誌の編輯にもいよいよ心を籠めてゆきたいと思ひます。
 浄と同じ年のこのポドゾルは私の力のつづく限り伸ばしてゆきたく、文化的にも意義のあるものにしたいと切に思つてをります。

「ポドゾル」が創刊された昭和12年は山野井の息子の浄が生まれた年でもあったのだ。その息子が亡くなり、「ポドゾル」は山野井にとって息子代わりの存在になったのだろう。

         *

その後の「ポドゾル」についてであるが、太平洋戦争開戦後の昭和17年6月に樺太歌壇を二分していた「樺太短歌」と合流し、「ポドゾル」の名前は消えることになる。その「樺太短歌」もまた、昭和20年6月号で終刊のやむなきに至った。

「ポドゾル」も「樺太短歌」も幻の雑誌と言ってよいほど、現物が残っていない。その一つの理由として、戦後樺太がソ連に占領され、日本人が引き揚げる際に雑誌等の持ち出しが禁じられたことが挙げられる。わずかに残っている雑誌は、終戦前に内地に転居した人が保存していたものということになる。

posted by 松村正直 at 00:24| Comment(0) | 山野井洋 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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