妻と前年に生まれた幼い息子を樺太に残しての上京であったようだ。「ポドゾル」昭和13年8月号に山野井は「郷愁通信」と題して、次のような文章を書いている。
豊原駅で抱つこして別れて来たばかりであるのに、どうしてかうも思はれるのであらう。微風に光る海の上に、幼な児の笑顔が見えるのである。
坊や、坊や!
坊や、坊や、坊や!
海に向つて呼べば、海の光と涙の中に坊やが浮んで来る。
人により、環境により、子を思ふ心の深浅はあらうが、親心のかなしさが、このやうにはげしいものであらうとは――。
汝(なれ)の顔海に見ゆるぞ波まくら音(ね)にさへ泣きて汝(な)を思ふ父ぞ
子を思ひつつ甲板に立てば、能登呂半島の稜線が海霧(がす)にかすんでゐる。
「能登呂半島」は樺太の南西端に伸びる半島。樺太から北海道へ渡る連絡船の上で、別れたばかりの息子を思い出して涙している姿である。何度も繰り返される「坊や!」という呼びかけがせつない。