日本人初のノーベル賞受賞者 湯川秀樹の随筆と歌集『深山木』(473首)を収めた本。文章にも歌にも味わいがあって、戦前育ちの人の教養の幅広さを感じさせられる。
一世代は本当に短かいものである。時は小川の水のように流れる。川の底に残るのはただ幾つかの小石である。美しい小石、人はこれを思い出と呼ぶ。
外形がはっきりしていて、心の奥は暗くてわからないのが普通であるのに、ここでは、明暗が逆になっている。この逆転によって、比類のない美しい世界を創造し得ることを、紫式部は千年の昔に発見したのである。
天の羽衣がきてなでるという幸運は滅多に来ない。一度もそういう幸運に恵まれずに一生を終わる人の方がずっと多いであろう。しかし、だからといって、そういう人の人生は無意味であったとは限らない。
他にも印象的な文章が多いのだが、中でも五人兄弟のうち一人だけ学者にならずに戦死した弟滋樹(ますき)を偲ぶ「大文字」という一篇は心に沁みる。
短歌は平明でわかりやすい歌が多い。
落ち暮れし田圃に立てば窓々の明るさのせて汽車はすぎゆく
湧き出でし煙動かずと見てあれば空にたなびき犬の首となる
バスはまた人なき里を行きてとまり女(をんな)降りけりそこは一つ家(や)
先生はいまだ帰らず春の日を松の木(こ)の間(ま)に少しある海
ひとりきてひとりたたずむ硝子戸の中の青磁の色のさびしさ
(ナポリにて)
見あぐれば窓に人あり綱(つな)の先のざるをおろして物買はんとす
おじいちゃんしかしと二歳児はわれにいひてあとははははと楽しげに笑ふ
湯川秀樹は戦後、新村出、吉井勇、川田順、小杉放庵、中川一政らと「乗合船」という短歌同人誌を出していたらしい。そのあたり、一度調べてみようと思う。
2016年10月7日、講談社文芸文庫、1600円。