1971年に新潮社から刊行された本の文庫化。
「芸術新潮」1970年1月号から12月号に連載された「わが世界美術史」がもとになっている。(8月号の「仮面脱落」は省かれたようだ)
最近、万博公園の「太陽の塔」の耐震改修工事が始まることもあって、岡本太郎が何かと話題になっている。彼の著書を読んでいると、本当にスゴイ人だということがよくわかる。文章も非常にエネルギッシュで、しかも鋭い。
石器時代という言葉自体、なんだかおかしい気がして仕方がない。石が残ったというにすぎないではないか、と思ってしまうからだろう。
修験道は庶民の生活にとけ込んでいた。あたかも火・水が聖なる対象であると同時に、生活のなかの親しいふくらみであったように。
山中至るところにある岩の中から、まことに偶然に、その一つが選ばれる。神聖な儀礼をもって。そうすると、とたんに呪術をおびてくるのだ。これが特に美しかったり、変った形態で、誰にでも一眼でわかるようなものだったら、逆に呪術をもたないだろう。
綾とりは紐の形作る抽象形態の方に目をひかれがちだが、しかし、それを支えるなめらかな指先の方に実は呪術の主体があることを忘れてはならない。
「恐山の石積み」「オルメカ時代の石像」「グリューネヴァルト『磔のキリスト』」「両界曼荼羅」「赤糸威大鎧」「アルトドルファー『アレキサンダーの戦い』」「平治物語絵巻」「男鹿半島のなまはげ」「ボッシュ『快楽の園』」「ゴッホ『馬鈴薯を食う人々』」「縄文土器」など、古今東西、実に幅広いものが取り上げられている。
それらは古いも新しいも、東洋も西洋もなく、太郎の心に触れるかどうかが唯一の判断基準となって選ばれているのだ。
俳優が演技する。役になりきってしまうのが最高の名優であるという考えがある。スタニスラフスキー・システムなどといって、自然主義を最高とする近代劇はそんな看板を掲げるかもしれないが、それは大ウソである。私に言わせれば、なりきってしまうのは下司な職人であって、本当に神秘的な演技者ではないと思う。明らかに自分の演じている人間と自分との距離を計りながら、その間に交流する異様な波動を身に感得しながら、遊ぶ。それ自体が本当に生きることであり、演技することである。
一見素裸のように見える岡本太郎であるが、実は冷静な部分と情熱的な部分とを常にあわせ持ち、演技する人であったのかもしれないと思う。
2004年3月1日発行、2011年2月25日6刷、新潮文庫、590円。