消えた和語について他の例も挙げると、古くは「脳」には「なづき」、「地震」には「なゐ」、「暗礁」には「いくり」という和語があった。
「なづき」「なゐ」など、確かに日常の言葉としてはもう使はない。でも、短歌の中にはしばしば出てくる。
今日の短歌や俳句の作品には、「瞑(めつむ)る」「瞑(めつむ)りて」「瞑(めつむ)れば」など、「瞑」を「めつむ‐る」と読ませる例がある。これも、一語と認定する辞書は少ない。もし「め」「つむる」の二語と認定すれば、これは二語にまたがる訓読みを持つ漢字となる。
確かに『広辞苑』では「瞑(つむ)る」は載っているが、「めつむる」は載っていない。
「我」も一人称「われ」という字義は仮借義である。この字は、のこぎりの象形文字で、すなわち、のこぎりが本義であり、同音語で代名詞「ガ」というような単音節の古代中国語にそれを当てて用いた。そして、その後、「我」に「のこぎり」の意味は失われたのである。
「我」が「のこぎり」を意味する漢字だったとは!
そこで思い出したのが、先日読んだ次の歌。
「我」という文字そっと見よ 滅裂に線が飛び交うその滅裂を
大井学 『サンクチュアリ』
「我」がのこぎりの象形文字であるならば、ギザギザで滅裂なのも道理である。象形文字の持つ力とでも言えばいいのか。「のこぎり」の意味を失った今も、「のこぎり」的なニュアンスはちゃんと伝わっているのだ。