富士山の描写である。
東京から中央高速道を走り、大月ジャンクションを経て河口湖方面に向かうと、都留市を通るあたりで、天候に恵まれればフロント・ウィンドウ正面前方に富士山がその姿を現す。
続いて著者は次のように書く。
道の角度のせいか、山の姿が唐突に視界に登場する光景に対する驚きは、繰り返しこの道を往復していても慣れて薄れることがない。裾野が雲に覆われていても予想を超えた高いところに頂きがあって、雲間に顔を出していることがある。
なるほど、確かにそうだ。
この「唐突に」「驚き」「予想を超えた」というところに、富士山の本質があるのだと思う。
富士山の写真や絵を見ていつも何となく物足りない感じがするのは、このためではないだろうか。写真や絵においては、最初から富士山の全貌が枠の中に収まっている。はじめから全体が見えているのである。
そのため「唐突に」「驚き」「予想を超えた」といったことが、起こらない。だから富士山が富士山らしくなくなってしまうのだ。
では一体どうすれば、写真や絵において「動き」のある表現をすることができるのか。これは短歌を詠む際にも時々考えることである。