なぜか「君死にたまふことなかれ」には反戦、天皇批判(→天皇制批判)のレッテルが貼られ、定着してしまった。その結果、太平洋戦争敗戦までは危険思想史され、敗戦後は一転して晶子の不屈の精神、反戦思想(→平和主義)をもてはやすような読み方をされ、今日に至っている。
とあり、発言の中で
いまからでも遅くはないから、曲解されて、悪用もされてしまった、その結果として自主規制まで施されてしまった文学作品の正しい読みを、ぜひここで取り戻したいという気持ちです。
と述べている。
この指摘に、私は共感する。
というのも、一昨日の朝日新聞(大阪本社版)夕刊の連載「「反骨」の記録」にも、この詩が取り上げられていて、その要約に違和感を覚えたからだ。
君死にたまふことなかれ
すめらみことは戦ひに
おほみづからは出でまさね
かたみに人の血を流し
獣(けもの)の道に死ねよとは
死ぬるを人のほまれとは
大みこゝろの深ければ
もとよりいかで思(おぼ)されむ
の部分を引いて、記者は
天皇は戦いに行かない。そのお心が深ければ、獣のように死ねと命じ、戦死を名誉とは思われないのではないか――。そんな意味なのだろうが、(・・・)
と書いている。
本当に「そんな意味」なのか。
疑問点の一つは「出でまさね」。ここは「出でまさず」という終止形ではなく、已然形の「ね」で止めているので、逆接として読むべきところだろう。つまり「戦いに行かない。」ではなくて、「戦いにお出でになることはないけれども、」ということだ。
もう一つは「深ければ」。これは口語の「深ければ」、つまり仮定の意味の「もし深いならば」ではなく、文語の「深ければ」である。已然形+「ば」の確定条件、すなわち「お心が深いので」という意味になる。
「天皇は戦いに行かない。そのお心が深ければ・・・」と「天皇は戦いにお出でになることはないけれども、そのお心は深いので・・・」
細かな違いのようだけれども、意味やニュアンスは大きく違ってくる。
大切なのは、自分の主義主張や都合に合わせて歌を読もうとしないことだろう。晶子に対する戦前の批判も戦後の礼賛も、その点に関してはどちらも同じ過ちを犯しているのである。
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