2016年05月06日

結社について考える (その3)

小池の文章の中に、次のような個所がある。

過日「短歌人」で座談会を企画し、永田和宏にも出席してもらった。話が結社のことに及び、永田和宏はしきりと現状を憂えた。今のような物わかりのよい、ひらかれた、民主主義的結社でなく、かつてのような巨大なカリスマが君臨し、断固としたヒエラルヒーが確立して、そこに反抗のエネルギーを醸成してくれるような結社へのアコガレを語った。ぼくは、うるわしいゆめのように、それを聴いた。

小池光と永田和宏は、ともに昭和22年生まれ。
「塔」30周年記念号が出たときは、ともに37歳になる少し前である。

永田は君臨される側からだけ結社をみている。君臨する側から発想してない。佐太郎が「歩道」を始めたのが三十七才、芳美の「未来」は三十八才、年齢的には君臨する側に立ってもちっとも不思議でないのである。しかし永田には(むろんぼくにも)それはゼッタイに不可能である。個人の資質の問題でなし、時代の流れがそうさせる。自ら大きな父親になることの不可能性を知りつつ、大きな父親のいる「家」にアコガれる、うるわしくもまたうらがなしい夢でなくてなんであろうか。

奇しくも、この記念号が出て3か月後の1984年7月に高安国世が亡くなる。永田はアメリカから帰国した1986年より「塔」の編集責任者となった(発行人は高安和子)。

一方の小池も、1985年に「短歌人」の編集発行人であった高瀬一誌が「短歌現代」の編集長になるため退任したのを受けて、「短歌人」の編集人となった(発行人は蒔田さくら子)。

まだ30歳代だった二人は、相次いで結社を率いる立場に立たされたのである。

posted by 松村正直 at 08:08| Comment(0) | 短歌入門 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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