2016年05月05日

結社について考える (その2)

小池は「結社のあるべき姿」について、次のように書く。

その答えはかんたんである。
そんなものは、ぼくには「ない」のである。
つまりぼくは結社というシステムを利用してきたのであって、それは結社の将来がどう変貌しようと変りない。変れば変ったなりに別の利用の仕方を考えるだけで、したがって、あるべき姿のようなものは「ない」。考える必然性がないのである。
こういう態度は無責任だろうか。無責任だろう。しかし、責任とは何か。ぼくは結社のため、伝統詩型の明日のため、書いているのじゃない。そんなものは全然どうでもよろしい。利用ということであれば、ぼくはたぶん、この詩型すら利用しているのである。

「この詩型(短歌)すら利用している」というのは、なかなか含蓄のある言葉だと思う。

文章の最後は、次のように締めくくられている。

とまれ、太宰治曰く、子供より親が大事。
然り、結社の明日よりわが歌の今日が大事。

当り前の話ではあるが、結社のために歌人や短歌があるのではなく、歌人や短歌のために結社がある。その前提を踏まえたうえで、さらに話を続けていきたい。


posted by 松村正直 at 00:02| Comment(2) | 短歌入門 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
短歌ヴァーサス第十一号で三枝昂之さんが、「試みと横紙破りと」という題で新鋭に寄せる文を書かれているのですが、このことは新人にもベテランにも、個人にも集団にも言えることなのかな、と思いました。
試みと横紙破りを持続的にやっていくことで、「結社のあるべき姿」というのはおのずと現れてくる、、かもしれないと。
Posted by 森 at 2016年05月07日 11:31
「短歌を含めた詩が新しくなるために必要なのは横紙破りである。既存の世界に学び、そして横紙破りをする。前者だけの優等生はつまらないし、前者を知らなければ横紙破りはできない」

「試みと横紙破り」が持続的に行われる結社というのは、確かに理想的ですね。ただし、それを生み出す環境づくりやシステムの構築は、なかなか難しいだろうと思います。

Posted by 松村正直 at 2016年05月07日 20:00
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