その答えはかんたんである。
そんなものは、ぼくには「ない」のである。
つまりぼくは結社というシステムを利用してきたのであって、それは結社の将来がどう変貌しようと変りない。変れば変ったなりに別の利用の仕方を考えるだけで、したがって、あるべき姿のようなものは「ない」。考える必然性がないのである。
こういう態度は無責任だろうか。無責任だろう。しかし、責任とは何か。ぼくは結社のため、伝統詩型の明日のため、書いているのじゃない。そんなものは全然どうでもよろしい。利用ということであれば、ぼくはたぶん、この詩型すら利用しているのである。
「この詩型(短歌)すら利用している」というのは、なかなか含蓄のある言葉だと思う。
文章の最後は、次のように締めくくられている。
とまれ、太宰治曰く、子供より親が大事。
然り、結社の明日よりわが歌の今日が大事。
当り前の話ではあるが、結社のために歌人や短歌があるのではなく、歌人や短歌のために結社がある。その前提を踏まえたうえで、さらに話を続けていきたい。
試みと横紙破りを持続的にやっていくことで、「結社のあるべき姿」というのはおのずと現れてくる、、かもしれないと。
「試みと横紙破り」が持続的に行われる結社というのは、確かに理想的ですね。ただし、それを生み出す環境づくりやシステムの構築は、なかなか難しいだろうと思います。