もっとも、そうした話題は何も今に始まったことではない。例えば「塔」1984年4月号(30周年記念号)を見ると、「現代短歌の問題」の一つとして「結社とは何か」が挙げられ、小池光さんが文章を書いている。
結社ということばは、なにやらあやしげである。ぼくが「短歌人」に入ったとき、母は「抜けられなくなるんじゃないか―応援団みたいにさ」と心配した。
という一文から始まる6ページの文章(「塔」のみな様こんにちは)はユーモアに満ちていて面白い。そして面白いだけでなく、30年以上前に書かれたとは思えないほど、現在の状況を鋭く見通している。
流派とか「文学」とかの結社を本然的に結社たらしめた大義名分は、今日ほぼかいめつしたと言ってよいのである。それでは何がちがうのか。「塔」と「短歌人」のちがいは何か。しみじみ考えてみるに、それは専らふんいきの違いであり、ふんいきの差異でしかない。
「かいめつ」「ふんいき」はひらがな書きで傍点が振ってある。
その上で、結社の未来像については、
結社もますます都市型に、ふんいき中心になる。ますます大学のゼミ的に、明るくニコヤカのびのびの快適なマンション生活みたいなイメージのものになろう。つまり、外見的には同人誌を量的に拡大しなおかつシステム効率を上げたようなものになる。
と記している。現在の大きな結社のあり方は、まさにこの通りと言っていいと思う。