解読上肝要なのは、この厳粛感がどこから来るものなのか、テキストに沿って見極めることです。原因を作者の感動の深さだの真率な態度だのに帰して事足れりとするのは、まともな解読とはいえません。
これは多くの歌人にとって耳の痛い言葉ではないだろうか。何しろ、歌集の書評などを読むと、この手の批評をいくらでも目にするのが現状だ。
もっとも、著者の主張は歌に書かれた一語一語を丁寧に読んでいこうというものであって、いわゆる「テクスト論」とは少し違う。それは
欧米の文学理論に精通した人たちは、“text”に由来する外来語を「テクスト」と表記したがる傾向にあります。私が大学生のころにはもうそうなっていましたが、困った風潮ではないでしょうか。原語は同じなのに、〈教科書・読本〉には昔ながらの「テキスト」をあてがい、〈ことばの織物〉という高級な概念は「テクスト」と呼んで差別化を図る――知的特権階級の策謀以外の何物でもないと思うのです。
という皮肉によく表れている。
作者の丁寧な読みを、例えば「死に近き母に添寝のしんしんと遠田のかはづ天に聞ゆる」という著名な歌について見てみよう。
「死に近き」は「死に」つまり〈死ぬこと〉が近いということ。「死」に近いのではありません。
母に添寝の」は〈母に添寝する心地が〉の意と解されますが、「〜に」という句は連用修飾句となるはずなのに、これを名詞「添寝」で受けたのは文法上破格です。
上二句/sini-tikaki-hahani-soineno/には子音/s/と母音/i/がちりばめられていて、それらが第三句の/sinsinto/に引き取られ、互いに共鳴する関係になっています。
「遠田」は作者の造語かもしれません(『日本国語大辞典』には「遠くにある田」として、用例にはこの歌が挙げてあります)。
実に細やかで的確な分析と言っていいだろう。
これだけ丁寧な読みをする人は、歌人でも少ないのではないだろうか。
著者がテキスト重視で歌を読むのは、「伝統」や「規範」「道徳」「ナショナリズム」といったものを纏いつかせることなく、純粋に短歌そのものを味わうためなのだ。
「母に添寝のしんしんと」の言い回しは破格でしょうか? 藤村の新体詩「寂寥」の一節に、「世をわびびとの寝覚には/あはれ鶉の声となり/うき旅人の宿りには/ほのかに合歓の花となり/羊を友のわらべには/日となり星の数となり/麦に添ひ寝の農夫には/はつかねずみとあらはれて」などとありますが、この「世をわびびと」「羊を友のわらべ」「麦に添ひ寝の農夫」を破格と言われると困ります。日本語の文法ってもっと柔軟なものじゃないでしょうか。
「遠田」は、清水房雄の指摘通り三井甲之の「道おほふ細竹(しぬ)の葉そよぎ風起り遠田の蛙天(あめ)に聞こゆも」という先行歌が存在するので、少なくとも茂吉の造語ではありません。
「テキスト」「テクスト」のくだりは痛快ですね。
2014年2月刊行なので、少し前の本です。
部分的な抜粋なので著者の意図がうまく伝わらないですが、「文法上破格」というのは批判しているわけではなくて「ことばの通常の使用法には託しがたい内容を表現しようとするとき、詩歌はしばしば文法から逸脱する」という文脈で、好意的に捉えられています。
もっとも、中西さんの挙げた藤村の例を見ると、それほど珍しいことではないようですね。こんなふうにパッと他の詩歌の用例が出てくるのはさすがです。やはり他と比較しながら考えないと、そうした語法が茂吉独自のものなのかわかりませんね。
ただ、自分ではこの歌をそこまであれこれ細かく考えて読んだことがなく、漠然と「お母さんに添寝していると遠くで蛙が鳴く声がするんだな」くらいに読んでいたので、驚いた次第です。
考えてみると、もし自分がこの場面を読んだなら、例えば「死の近き母に添寝をしておれば遠く蛙の鳴く声聞ゆ」みたいな一首になるでしょう。それと元の歌との差みたいなところに、この歌の大事な部分があるような気がします。
「死の近き母に添寝をしておれば遠く蛙の鳴く声聞ゆ」という改作例との比較はちょっとおもしろい。何が違うのか、考えてみようと思います。