「学校で習った範囲でしか茂吉の歌を知らないというのは、およそ衣食に事欠かない人間が置かれうる限りでは、相当不幸な境遇です」と断言する著者が、茂吉の作詩法を解き明かし、代表作「死にたまふ母」を独自の視点から読み直した本。
従来の説や先入観にとらわれることなく、著者は歯切れの良い文章で自らの説や歌の読みを語っていく。
例えば「写生」について。
「写生」は「字面にあらわれただけのもの」などではありません。現実の事物・事象を見慣れないものに変えてしまう技法――少なくともそういう可能性を潜在的に有した技法なのです。
現実を直写したはずの表現が現実を凌駕してしまう逆説(・・・)茂吉にとってはそこにこそ写生の醍醐味があったのだと思います。
茂吉にとっての写生とは単なるスケッチではなく、現実を異化するものであったのだ。
また、和歌においては「主人公を取り巻く状況は題が指示してくれていた」のに対して、近代短歌ではそれが欠けていることを指摘したうえで、
そこに、近代短歌が自己表白の文芸として展開せざるをえなかったもっとも大きな原因があるはずなのです。この件は従来、「近代的自我の目覚め」という点から説明されてきた経緯がありますが(・・・)
と指摘している部分など、まさに慧眼と言って良いだろう。
「死にたまふ母」の読解においても、印象的な部分が多い。
白ふぢの垂花(たりはな)ちればしみじみと今はその実(み)の見え
そめしかも (其の一、2首目)
ふるさとのわぎへの里にかへり来て白ふぢの花ひでて食ひけり
(其の四、5首目)
の二首を踏まえて、著者は
東京ではとっくに散ってしまった藤が、郷里ではまだ咲き始めたばかりなのでした。「其の一」の冒頭から読み進めてきた読者に、気候のずれが自然に了解されるようになっています。
と鑑賞する。
実に鋭い分析だと思う。単に時系列に沿って並んでいるだけではない連作の組み立ての妙を味わうことができる。
2014年2月25日、新潮選書、1300円。