おびえ幼く憎みし商業のみの街旅人われの今日のやすけさ
つね病みて荷馬車馬蹄のひびきしか我さえに同じ我にあらねば
荷馬飼う土間より二階にのぼりたる友の家夢のごと幼くありき
生薬(きぐすり)と屑藁匂う町なりき今ひややけきビルの街筋
『虚像の鳩』
昭和40年の作品。
高安病院と高安の生家は昭和20年の空襲で焼失した。
1首目「おびえ幼く憎みし商業のみの街」という部分に、小学生時代の高安の道修町に対する思いが述べられている。4首目「今ひややけきビルの街筋」には、久しぶりに訪れた町の変貌ぶりが表れている。幼少期の自分を懐かしく思い出しているのだろう。
小学校時代の高安は、どんな少年だったのか。同級生の砂弌郎氏が「小学校の国世さん」という文章を書いている。(「塔」昭和60年7月号 高安国世追悼号)
(・・・)顧みれば大正九年、大阪の愛日小学校への就学時から、高安さんは素晴しく上品な紳士で、組中の者から注目された方でした。ご尊母様は有名な閨秀歌人で吃驚する程美しく、兄上は六年生で児童長だつたと思ひます。(・・・)私は不思議に高安君とはよく話もし、お住居(西欧童話に出てくる様な蔦にくるまれた瀟洒な三階建でした)へも二三度遊びに行き、彼もよく私の家へ来られました。
この「西欧童話に出てくる様な蔦にくるまれた瀟洒な三階建」の高安家については、住宅総合研究財団編『明治・大正の邸宅 清水組作成彩色図の世界』に、設計図や外観図が残されている。
廊下と二つの建物の間には「内庭」があり、壁泉が設けられている。こうした壁泉は、大正末から昭和初期にかけて流行するスパニッシュ様式の住宅に盛んに採用されており、流行を先取りしたものとして注目される。
通りに面した間口の狭さもあって敷地はそれほど広くないが、何ともオシャレな建物である。高安はそんな家の三男三女の病弱な末息子として育ったのである。
言い遺すごとく語りて飽かぬ姉あわあわと聞くわが父祖のこと
かかわりを避けつつ生きて来しかとも大阪の町古き家柄
ようやくに余裕をもちて聞く我か祖父母父母その兄弟のこと
『新樹』
昭和49年の作品。
姉から家族の歴史を聞いている場面である。以前は「かかわりを避け」ていた道修町や生家のことを受け入れて、「ようやくに余裕をもちて」聞くことができるようになった高安。そこには、ドイツ文学者・歌人としての自信が滲んでいると言っていい。