生家の近くには愛珠幼稚園という日本で二番目に古い歴史を持つ幼稚園があり、高安の姉たちはここに通った。
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「病弱で幼稚園にも行かなかった私」(「芦屋の浜と楠」)という意識は、その後の高安の生き方に少なからぬ影響を与えている。
高安が大阪の家に住むようになったのは、愛日小学校に入学してからである。「回顧と出発」(『若き日のために』所収)という自伝には、次のように書かれている。
小学校へ行くやうになると、私は急に郊外の家から町の中へ移された。薬問屋が軒並に並んでゐる道修町のこととて、木煉瓦の上を荷車がよく通つた、重たげに荷を積んで――。
鈍い轍の音に混つて、カッチンカッチンと車軸のところの金具が鳴り、ひづめの音が過ぎて行つた。昼前の光のなかにルノアールかなんかの模写のかゝつてゐる明るい天井際をぼんやりと眺めながら私は寝床の中で、家全体がびりびりと微かに揺れるのを背中で感じた。さうして荷車がだんだん遠ざかつて、振動がかすかになつてゆくのをおぼえてゐる間に、私は無限のしづかさといつたやうなものの予感にふるへ、無為の愉しさがひそかに骨髄をとろかしはじめるのをおぼえた。
寝床の中で、通りを行き交う荷馬車の音や振動を聞いている場面である。「ルノアールかなんかの模写のかゝてゐる」というところに、ヨーロッパへの留学経験を持つ父のいる高安家の雰囲気が表れている。
道修町に対する高安の思いは複雑だ。そこには愛憎半ばするものがある。
道修町をはじめ大阪の船場という地域は、商人の町、実業の町である。小学校の同級生も快活な商人の子が多かった。その中にあって、高安は医者というインテリの子であり、病弱ということもあって、周りとは肌が合わなかったようだ。
四十過ぎて集う小学校の友らみな酔い行きてそれぞれに落付きを持つ
商人の言葉なめらかに言い交わす友らにも今は親しまんとす
理解されざることも気易しと今は思う三十年過ぎて相逢う友ら
『砂の上の卓』
40歳を過ぎて小学校の同窓会に出席した時の歌である。「商人の言葉」を話す同級生に対して、高安は大学の助教授である。「今は親しまんとす」という言い方には、昔(小学生の頃)は親しめなかったけれど、というニュアンスが含まれているのだろう。