2016年03月09日

安藤宏著 『「私」をつくる』


副題は「近代小説の試み」。

近代の小説において、「私」がどのように生み出され、小説の中でどのような役割を果たしてきたのか。著者は、二葉亭四迷、夏目漱石、志賀直哉、太宰治、泉鏡花、川端康成、牧野信一、芥川龍之介など数多くの例を引きながら、「私」の構造や本質に迫っていく。

扱っているのは小説の話なのだが、一人称や事実と虚構の問題など、短歌とも深い関わりがある。

実は一人称の「私」もまた、もう一人の「私」によってつくられ、演出されている「私」なのである。
一人称は非現実的な内容にリアリティを与えたり、ありきたりの日常を眺め変えてみたりするためにこそ有効な手立てでもある、ということになる。
「事実」の「報告」を前提に出発するからこそ、逆に作者は「いかにも事実に見えるウソ」を表現することができるわけで、そもそも虚構とは、こうしたダブルバインド(二重拘束状況)を仕掛けていく技術の謂(いい)にほかならない。
そこには作者を主人公に重ね合わせて読もうとする慣習を逆手にとって「事実」を攪乱していこうとする、したたかな戦略があるのではないだろうか。

こうした部分は、そのまま短歌の「私性」や「虚構」の話にも当て嵌まるだろう。「私」(短歌で言う「われ」)を用いることによって、表現の幅や可能性が格段に広がるというのが大事なところである。

近代歌人ももちろん、このことに気が付いていた。それを元にして数々の近代短歌の成果を生み出したわけである。近代の歌人たちが単に「ありのままの事実」を詠んでいたなどという、素朴な短歌観や近代短歌批判は、そろそろ終わりにしなければならない。

それは

「単なる私小説」などという“敵役”は、実際にはどこにも存在しないものだったかもしれないのである。

という私小説批判への疑問とも重なることなのだろう。

2015年11月20日、岩波新書、760円。

posted by 松村正直 at 09:34| Comment(0) | | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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