けれども、ここにちょっとした落とし穴がある。
ページの端を丁寧に折る
先日、ある歌会でこういう下句があった。作者は「丁寧に」という言葉を描写の言葉のつもりで使っていたのだが、一人称の歌の場合、これはむしろ心情の言葉になってしまう。「(気持ちの上で)丁寧に」「心をこめて」「思いをこめて」といったニュアンスだ。
もし、これが三人称主体の歌であった場合は違う。「丁寧に」は「(外から見て)丁寧に」「端を揃えて」「ずれることなく」といった客観的な描写の言葉となる。
つまり、主体が一人称か三人称かによって、同じ言葉が心情の言葉にもなれば描写の言葉にもなるということだ。
椅子からゆっくり立ち上がる
という表現はどうだろう。これが一人称の場合、「ゆっくり」は「(意識的に)ゆっくり」「(気持ちを落ち着かせるために)ゆっくり」といったニュアンスをまとう。そのため、客観的な速さの話とは少し違った心情の言葉になる。
一方で三人称主体の場合は、「(立ち上がる速度が)ゆっくり」という客観的な描写の言葉になるだろう。
「悲しい」や「寂しい」が心情の言葉なのは誰にでもすぐにわかることだが、「丁寧に」や「ゆっくり」が心情の言葉になってしまう場合があるというのは、意外と気が付かないことなのかもしれない。
二つ目のフレーズは、これをもし二句目、三句目とするなら、四句目、または五句目を八音にすると、いわゆる四四調が活きてくるかと思います。
かなり思いつきで物を言いましたが、あくまでも一案として。
「丁寧に」についてお尋ねします。
一人称だと心情もあらわし三人称だと様子をあらわしている、との事ですが、三人称でも「丁寧に〜する」「丁寧に扱ってくださった」などと使われるとき、そこに心情は入らないのでしょうか?短歌での具体例が見つけられなくてすみません。「丁寧に」という言葉が心情と切り離してしまって考えることが出来なくて質問いたしました。
ご意見ありがとうございます。語順も大切な要素になりますね。歌をどのように直すかは、最終的には本人が考えれば良いことだと思います。
谷口さん
もちろん三人称の場合でも「丁寧に」には心情的なニュアンスが入るでしょうね。ただ、その割合が一人称の場合とは違うという話です。
純粋に客観的な描写の言葉にするならば、例えば「ページの端を三角に折る」とすれば良いわけです。