上田敏の『海潮音』は、西洋の象徴詩を、日本語の大和言葉に移し替えた金字塔である。その後の日本の詩人が、日本語で象徴詩を創作し得たのは、上田敏の『海潮音』が、コロンブスの卵だったからである。
と、まずはその功績を言う。続いて
だが、光あれば、必ず影ができる。西洋の象徴詩を、大和言葉で、しかも時には定型詩で、翻訳したことの弊害が無いはずがない。
大和言葉になった象徴詩は、もはや本来の「象徴性」を喪失し、抒情詩に変型されているのではないか。
はっきり言おう。『海潮音』は、高踏的であることを目指していながら、結果的に「俗に流れる」点がある。(・・・)極論すれば、上田敏の翻訳詩は、日本人が本物の「象徴詩」を書く障害となったのではないか。
と指摘するのである。
なるほど、そういう見方もあるのか、鋭い分析だなと感心した。
その後、たまたま高安国世の歌論集『詩と真実』(1976年)を読んでいたところ、高安も既に同じようなことを述べているのに気づいた。
上田敏の訳詩が日本の詩に決定的な影響を与えたことは知られているが、あそこにある西洋は本当に西洋だったろうか。「山のあなたの空とおく」など西洋の詩としてはつまらぬものだ。日本人のほのぼのとしたセンチメンタルなエキゾチズムにそれはぴったりだったので、たちまち人口に膾炙し、津々浦々にカルル・ブッセの名前は行きわたった。ドイツ人でこの名前を知る人は少ない。
ヴェルレーヌの「秋の日の ヴィオロンの」なども、あまりに日本人好みだし、日本語となりすぎた。すべて外国文学が大衆に浸透するには、しかしそれほどの消化と変容を経なければならないのだ。しかし上田敏のあまりにも日本化され、あまりにもなめらかな翻訳のため、日本の詩人は西洋詩の骨格、思想や表現法を学ぶのに大まわりをしなければならなかったのだ。
ここで高安が「大まわりをしなければならなかった」と述べていることは、島内が「障害となった」と指摘しているのと、同じ結論と言っていい。
ドイツ文学の翻訳をし、自作短歌のドイツ語訳もしていた高安であるから、西洋文学と日本の詩や短歌との関係について考える機会も多かったのだろう。
高安自身の中でドイツ文学と短歌がどのように結び付いていたのか、「ドイツ文学者・高安国世」と「歌人・高安国世」はどういう関係にあったのか、という部分は、まだ十分には論じられていない問題だと思う。