とりあえず1点だけ。
短歌における人間の問題について、阿波野は
短歌に「人間」を見出して鑑賞するとき、作品群から作者像が結ばれるという主従関係は、壊されてはならない。作者情報を〈主〉、作品を〈従〉となして鑑賞した結果〈濃厚な人間〉が歌に現れる、という鑑賞態度ばかり取っていると、作品から作者像を結ぶという「読み」の営為は虚しいものとなってしまうだろう。
と述べる。基本的には私もこの考えに賛成である。
ただ、一番の問題は、短歌において「作品」と「作者情報」を明確に分けることが、非常に難しいという点にあるのではないか。
例えば、永井祐の歌を引いて阿波野は
これが永井の見えている世界であり、東京で生まれ育った永井自身に芽生えている感覚なのだと思うと、この歌の背後に平成の今を生きている人間がいるように感じられないだろうか。
と書く。でも、永井の「作品」のどこから「東京で生まれ育った」ということが読み取れるのだろう? それこそ「作者情報」ではないのかといった疑問が湧く。少なくとも時評に引かれている歌からは、そういったことはわからない。
永井の歌集『日本の中でたのしく暮らす』を読めば「東京」「山手線」「五反田駅」「池袋」「渋谷」「品川区」といった地名が出てきて、彼が現在東京に暮らしていることはわかる。けれども、東京に生まれたという点はどうか。
わたしは別におしゃれではなく写メールで地元を撮ったりして暮らしてる
という歌から推し量ることは可能であるけれど、実際にはどうなのだろう。それよりも、歌集の最後に記された「1981年、東京都生まれ。」というプロフィールに依拠しているのではないかとの思いが拭えない。
どこまでが「作品」から純粋に読み取れることで、どこからが外部の「作者情報」なのかという問題は、無記名の歌を批評する歌会の場ならともかく、通常の歌集や歌人について論じる時には、明確に切り離せるものではないように思う。両者は渾然一体となっているのだ。
もちろん、だから切り離す必要がないと言っているわけではない。切り離して論じることで、短歌という詩型について見えてくるものも多い。けれども、実際にはなかなか切り離せないという点も、短歌の特徴として踏まえておく必要があるのではないだろうか。
「東京で生まれ育った」の点、ご指摘の通りで、無意識のうちに外の作者情報を参照してしまっていました。「東京で暮らす」などの方が適切かなと思います。ただし、どちらにせよ、「平成の今を生きている人間」というのは永井さんの歌には表れているという点は変わりません。
僕自身も作者情報を作品から切り離すべきだとはそこまで思っていなくて、そういった情報が鑑賞を支え、一首の強度を高めるということもあるだろうと考えています。
要はバランスの話だと思うのですが、作者情報を過度に参照して作品に〈私〉が表れているという言い方をするのは同調できない、というスタンスですね。何を持って過度とするのか、という線引きは難しいのですが。
テキストを読む→作者像の形成→テキストに再反映、のような過程に「作者情報の参照」がなされる分には良いかなと思うんですが、この「作者像」と「作者情報」の比重が後者に偏りすぎると読みの精度をむしろ欠いてしまうのではないか…などと思っています。
なんだかまとまらなくてすみません。またいろいろ考えてみようと思います。
詳しくはまた会った時に話したいと思いますが、短歌における人間とは何か、というテーマはそもそも論じにくいですね。角川1月号の座談会も読んでいてもどかしかったし、阿木津さんと対談した時も全く論じ切れなかったという思いがしました。
あと、永井祐さんの歌に人間が表われているということに異論はありません。同感です。ただ、それを「平成の今を生きている人間」と言うのはどうでしょう。80歳の人も、50歳の人も、みんな平成の今を生きていることにかわりないのですから。