副題は「短歌時評集二〇〇九―二〇一四年」。
2011年4月から2014年3月まで3年間にわたって共同通信に連載された時評「短歌はいま」を中心に、時評的な文章や鼎談などを収めた時評集。
「短歌はいま」以外の文章は既に総合誌などで読んだものなのだが、構成・配列が良く、全体が一つのつながりとして読めるように工夫されている。
短歌の読みとは、自他のあわいに新しいものを創造する行為なのではないか。
という主張が、この本を貫く大きな柱となっている。これは「はじめに」に記されている言葉であるが、「はじめに」の部分は書き下ろしなので、最初からこの結論があったわけではなく、本書に収められている文章を記していく中で著者がたどり着いた結論ということなのだ。
本来、別物であるはずの作者と読者の間に何かが生まれるためには「身体的なものが非常に重要になってくる」と著者は述べる。
「手」とか「耳」とか「乳房」とかいった身体の部位を歌に詠むから身体性があらわれてくるのではない。 (河野裕子論 声と身体)
では、身体性は一体どこから生まれてくるのか。
短歌において身体性を生み出すのは、定型が生み出すリズムであると言っていい。
というのが著者の主張である。
定型に合わせて読むということは、作者と読者が同じリズムを体験するということであり、作者と読者のあいだに、身体的な交感を生じさせることになる。
短歌の韻律の魅力というのは古くから言われていることだが、それを「身体的な交感」という観点から捉えているところに新しさがあるように思う。
また、「読者としての自分が、固定したものであってはならない」とも著者は言う。
他者に触れることでさまざまに変化してゆく、柔軟な自己であろうとすることが大切なのである。
これは、歌集を読む時や歌会に参加する時に、常に心掛けておくべきことだ。
本書には東日本大震災や、特に原発事故に関する文章が多く収められている。著者は昨年9月に京都で行われたシンポジウム「時代の危機に抵抗する短歌」を企画し、12月に東京で行われたシンポジウム「時代の危機に向き合う短歌」にも参加した。こうした活動の原動力となっているものを知るためには、この本を読んでおく必要があるだろう。
2015年11月15日、いりの舎、2700円。