松村は言語学者で作歌する東郷雄二が、「ある」「いる」のような動作動詞のル形(いわゆる現在形)の終止は出来事感が薄い、何かが起きたという気がしないと、すでに論じていたことに首肯する。
東郷さんは短歌についての文章は書いているけれど「作歌」はしない。
それに「ある」「いる」は状態動詞であって動作動詞ではない。
私が引用した東郷さんの文章(「橄欖追放」第164回)は次の通り。
「ある」「いる」のような状態動詞のル形は現在の状態を表すが、動作動詞のル形は習慣的動作か、さもなくば意思未来を表す(ex.僕は明日東京に行く)。このためル形の終止は出来事感が薄い。何かが起きたという気がしないのである。
どうしてこの文章がそのまとめになってしまうのか、と残念に思う。
A 座談会「現代短歌のゆくえ」に参加してます。藤島秀憲、大井学(司会)、松村正直、大松達知、島田幸典、笹公人の6名。昨年から今年にかけて角川「短歌」にリレー評論を書いたメンバーなのだが、見事に結社に属する中年男性ばかりとなってしまった。
B 特集「話題の歌集を読む」で、服部真里子が小池光『思川の岸辺』について書いている。「水仙と盗聴」で話題になった二人の組み合わせだ。可能性としての死や「われ」の交換不可能性を論じた丁寧な内容なのだが、小池の妻の死には一言も触れていない。
無論あえて触れなかったのだろう。かなりの力技である。私は妻の死に触れなければこの歌集を論じたことにならないという立場なのだが、一方で服部の意志の強さや態度には清々しい印象さえ受ける。
「歌壇」1月号の「滲んでゆく今」、良かったです。口語の時間表現に関する議論が、また一歩深まったと感じました。