2015年11月21日

十一月二十日

昨日の読売新聞朝刊の長谷川櫂の詩歌コラム「四季」に、小池光の歌が紹介されていた。

一日の過ぎゆくはやさ凝視して妻と二人あり十一月二十日

解説は以下の通り。

ふつうのことをふつうに詠む。短歌でも俳句でも、これほど難しいことはない。題材にもたれず表現に凝らず、それでいて深い静かさをたたえていること。この歌もその一首。時の激流の真っただ中の静かさ。歌集『思川の岸辺』から。

これで解説は十分なのか、というのが正直な気持ち。
この歌は本当に「ふつうのことをふつうに」詠んだだけの歌なのだろうか。

歌集を見ればわかることだが、この歌は『思川の岸辺』の巻頭歌である。作者にとってそれなりの思い入れのある一首に違いない。そして、その歌集は

妻の死は、大きな大きな衝撃となった。わたしの人生は、ここに歴然たる区切りを迎え、以後の生活は一変した。区切りを区切りとして受け止め、さらに新たに前に進まねばという気持から、その死から五年を迎えるいま、本集を編むことにした。

という一冊なのだ。巻頭に妻の歌があるのが偶然ではない。

掲出の一首の初出は「短歌現代」2010年1月号。なので、この「十一月二十日」は、2009年の11月20日であろう。あとがきに「二〇一〇年の十月に、癌で妻を亡くした」とあるので、結果的に妻にとっては生前最後となった「十一月二十日」なのである。

もちろん、そうした諸々のことは、この一首だけからはわからない。でも、「ふつうのことをふつうに」詠んだだけの歌でないことは確かだと思う。

posted by 松村正直 at 08:36| Comment(2) | メモ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
連れ合いが余命宣告されてからの日々は毎日が記念日のようだったのを思い出しました。
どの歌も身にしみてきます。
最後のクリスマス、最後の大晦日、最後の初日の出…そんな連続でした。
なんて端的に詠まれているのかと思いました。
Posted by 谷口美生 at 2015年11月21日 20:05
病む人はもちろん、傍にいる人も気持ちを保つのが大変でしょうね。「十一月二十日・・・」の歌は「マゼラン」と題する一連に入っていて、この後に

海峡か入江か知らず入(はひ)りゆくマゼランの艦隊おもひてわれは
病む人のかたへにありてツヴァイクの『マゼラン』読みつつ己支ふる

と続きます。

通り抜けられる「海峡」か通り抜けられない「入江」か知らず、という緊迫した思いは、本に読むマゼランのものであるとともに、作者の思いでもあったのでしょう。

連作の最後は

海峡をいつとはなしに抜けしとき静かの海はひろがりてをり

という1首。マゼラン海峡を抜けて太平洋に出た場面ですね。
Posted by 松村正直 at 2015年11月22日 07:44
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