一日の過ぎゆくはやさ凝視して妻と二人あり十一月二十日
解説は以下の通り。
ふつうのことをふつうに詠む。短歌でも俳句でも、これほど難しいことはない。題材にもたれず表現に凝らず、それでいて深い静かさをたたえていること。この歌もその一首。時の激流の真っただ中の静かさ。歌集『思川の岸辺』から。
これで解説は十分なのか、というのが正直な気持ち。
この歌は本当に「ふつうのことをふつうに」詠んだだけの歌なのだろうか。
歌集を見ればわかることだが、この歌は『思川の岸辺』の巻頭歌である。作者にとってそれなりの思い入れのある一首に違いない。そして、その歌集は
妻の死は、大きな大きな衝撃となった。わたしの人生は、ここに歴然たる区切りを迎え、以後の生活は一変した。区切りを区切りとして受け止め、さらに新たに前に進まねばという気持から、その死から五年を迎えるいま、本集を編むことにした。
という一冊なのだ。巻頭に妻の歌があるのが偶然ではない。
掲出の一首の初出は「短歌現代」2010年1月号。なので、この「十一月二十日」は、2009年の11月20日であろう。あとがきに「二〇一〇年の十月に、癌で妻を亡くした」とあるので、結果的に妻にとっては生前最後となった「十一月二十日」なのである。
もちろん、そうした諸々のことは、この一首だけからはわからない。でも、「ふつうのことをふつうに」詠んだだけの歌でないことは確かだと思う。
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どの歌も身にしみてきます。
最後のクリスマス、最後の大晦日、最後の初日の出…そんな連続でした。
なんて端的に詠まれているのかと思いました。
海峡か入江か知らず入(はひ)りゆくマゼランの艦隊おもひてわれは
病む人のかたへにありてツヴァイクの『マゼラン』読みつつ己支ふる
と続きます。
通り抜けられる「海峡」か通り抜けられない「入江」か知らず、という緊迫した思いは、本に読むマゼランのものであるとともに、作者の思いでもあったのでしょう。
連作の最後は
海峡をいつとはなしに抜けしとき静かの海はひろがりてをり
という1首。マゼラン海峡を抜けて太平洋に出た場面ですね。