ふらんす堂のホームページに2014年1月1日から12月31日まで連載された「短歌日記」365首をまとめた第5歌集。
以下、引用は歌のみ。
突きあたり向きをかへたる穂のふくむ墨すべらかに紙を走りつ
まふたつにされし蜜柑の断面の濡れをりいまだ小鳥来らず
ひのくれまでねむれるわれをゆりおこすわれをみてをりあけのねむりに
蜂蜜の壜かたむけてゆるやかにかたよるひかり眺めゐるなり
さやゑんどうの莢に透きたるかなしみの萌しのごとき丸みにふれつ
とほき世に眉をゑがきしをみならの映ることなき手鏡ぬぐふ
傘をうつ雨くぐもりてひびきをり電話のなかのこゑの向かうに
垂直の壁をのぼれるかたつむり遅れて殻をひきあぐるなり
ちぎれたる枝葉にまじりかなぶんの光沢ありぬ朝の舗道に
水たまりに桜紅葉のしづめるを覗かむとするわれの黒き影
1首目、書の練習をしている場面。「墨」「紙」が下句にあるのがいい。
3首目、全部ひらがな書きにして、どこまでが現実でどこからが夢なのかわからない眠りの感じをうまく出している。
4首目、「かたよるひかり」がうまい。
6首目、手鏡にまぼろしの女性の姿が「映る」という歌は時おり見かけるが、これは「映ることなき」と詠んでいる。でも、「映る」と詠む以上に映っている感じがする。
8首目、かたつむりの移動する姿が目に浮かぶ。
9首目、かなぶんは、もう死んでいるのだ。
今回この歌集を読んでみて、短歌と日付や散文との相性が非常に良いように感じた。横山さんの歌は生活感や肉体性が薄く固有名詞のほとんどない世界なのだが、日付や散文と組み合わされることで、詩情と現実生活とのバランスがうまく取れている。
印象に残ったのは「不在」と「ここではない場所」の描き方。
去年の秋にわが見し蝶のもうをらぬ公園にきて松の実を踏む
ゆふべまで大きかたつむりゐし場所に陽のあたりをり何もをらねば
今はもう目の前にいないものを詠んでいる。
けれども、むしろその印象は鮮やかだと言っていいだろう。
雷鳴のごとしとながく聞きゐたる花火はとほき川照らすらむ
雨音の荒きを傘のうちに聞きてきみゆくならむ朝(あした)の街を
家の中にいて花火大会が行われている川を想像する一首目。二首目は雨の日に出勤する人の姿を思い描いている。どちらも、自分はその場所にはいない。「らむ」「む」といった推量の助動詞を使った歌が、この歌集には実にたくさんある。
「不在」と「ここではない場所」。
どちらの歌からも、かすかな寂しさが伝わってくるように思う。
2015年9月9日、ふらんす堂、2000円。