結社の歌会の後の雑談の席などで、「Aさんには落とされたけど、もう一度出してみたらBさんは採ってくれた」とか「Cさんだといつも5首だけど、Dさんはたくさん採ってくれる」といった話を聞くことがある。「塔」には複数の選者がいて、ローテーションで回っているので、そういうことが起こり得る。
「選者の選は絶対ではない」と選者自身もよく言うし、誌面でもそのように説明することが多い。そうした考え方は、選者に落とされた歌にも救いの道が残されるという点で、多くの会員を慰めてもいるのだろう。
でも、本当にそれで良いのだろうか?
本来、選というのはもっと厳しくて、絶対的で、時に理不尽で暴力的なものでさえあったのではないか。○か×かの二者択一。△はない。採られなかった作品は、永遠に日の目を見ることもなく葬られる。しかも、どこが悪くて落とされたのか説明やアドバイスも一切ない。
そうした昔ながらの選のあり方が、現代では受け入れられにくくなっていることも事実だ。だから「絶対ではない」という話が出てくる。けれども、選を相対的なものと捉えている人は、はたして本当に選から学ぶことができるのだろうか。
選を軽く見る人は、選から学ぶことも少ないに違いない。選の結果を重く受け止めない限り、選から多くを学びとることはできないのだ。
落とされた歌を別の選者に出すというのは、
御法度ではないでしょうか。
選歌については、いろいろな考え方があり、なかなか難しい問題ですね。
今回ちょっと思うところがあって、あと2回ほどこの話題で書いてみたいと思っています。